光武帝紀12 「上谷・漁陽の約」

後漢紀』抄訳の第十二回目。劉秀は耿弇とはぐれて信都郡の任光らと合流しますが、一方、耿弇や上谷郡周辺の動向はその後どうなったのか…。


劉秀*1は趙*2国を攻め、軍勢をまとめて鉅鹿*3に入城して広阿*4を降服させた。

更始帝*5はもともと即位したとき、使者を諸国に派遣して「降服した者から順番に爵位を返す」と宣言していた。だから上谷*6太守*7耿況*8はその使者を迎え入れ、印綬*9を献上したのである。だが使者はまるで返してくれそうもない。そこで功曹*10の寇恂*11は兵士を連れて押しいり、印綬の返還を求めた。使者が「功曹どのは天子の使者を脅迫なさるのか?」と言うと、寇恂は「使者どのはご命令を授かって四方を走りまわられ、郡国はどこも首を長くしてお待ちしておりました。しかし上谷は帰服の望みを阻害され、離叛の心すら生じております。それではどうやって他の郡に命令できましょう?耿況どのは長らく上谷におられ、官吏・民衆に慕われておりますから、解任すれば人心を不安にするだけですぞ」と告げた。

使者はそれでも印綬を返そうとしなかったので、寇恂は側近たちを怒鳴りつけて「使者どののご命令だ」と言って耿況を呼んでこさせた。耿況が来ると、寇恂はずいと進みでて(使者の手から)印綬を奪いとり、耿況に着用させた。仕方なく、使者は詔勅に従って返還することとし、耿況はこれを受けとってから退出した。

寇恂は字*12を子翼*13といい、上谷昌平*14の人である。実家は代々にわたる郡県の名士であった。寇恂は学問を好み、功曹になってからは耿況からたいそう尊重されていた。

そのころ王郎*15が「上谷郡は軍隊を動員してよこせ」と伝えてきた。寇恂は門下掾*16の閔業*17とともに「邯鄲*18が飛びだしてきたのは信用できません。それはかつて劉縯*19どのも批判しておりました。大司馬*20劉秀どのは劉縯のご令弟にあたり、賢者を尊んでよくへりくだるとか。このお方に帰服なさるのがよろしゅうございます」と言上した。耿況が「邯鄲の軍勢は強力だ。単独では対抗できないがどうすればよかろう?」と尋ねると、寇恂は「いま大郡を根城にしてその郡兵を総動員しているのですから、去就は思いどおりです。寇恂は東方へ行って漁陽*21太守との連合を約束してきましょう。邯鄲など恐れるに足りません」と答えた。

耿弇*22は劉秀とはぐれたあと、上谷を目指して裏道を抜け、このときちょうど戻ってきた。耿弇もまた軍勢の動員を勧めたので、耿況は寇恂を漁陽へ行かせ太守の彭寵*23を説得するよう命じたのであった。

一方、漁陽郡では、呉漢*24という者が太守彭寵を説得していた。「漁陽・上谷の突騎*25は天下に名を知られています。ご主君、上谷郡とともに精鋭を率いて劉公*26に拝謁なさいませ。協力して邯鄲を攻撃すれば、それは功績を立てるに千載一遇の好機ですぞ。」護軍*27の蓋延*28、狐奴*29の令*30の王梁*31もまた同じように勧めたので、彭寵は乗り気にはなったものの、部下たちが承知しなかった。呉漢は彭寵の自律性のなさを察し、そのまま退出した。

呉漢が城外に出たところ、路上には多くの飢えた人々がおり、その中に書生らしき風体の人物がいたので部下に呼んでこさせた。そこで見聞を尋ねたところ、書生の言うには「劉公は行く先々で評判が高く、邯鄲で劉子輿と呼ばれているのは実は劉氏ではありません」とのことであった。そこで呉漢は決意を固め、(劉秀どのから届けられたと称して)勝手に檄文を出して漁陽の郡兵を動員し、さきほどの書生に檄文を持たせて彭寵のもとへ行かせた。彭寵の部下たちはみな戸惑った。

寇恂が到着したのはこのときである。彭寵はついに郡兵を動員することに決め、呉漢に長史*32の職務を代行させた。そして都尉*33の厳宣*34、護軍の蓋延、王梁らとともに歩騎三千人を率いて薊*35を攻撃するよう命じ、王郎の大将趙閎*36らを斬首した。

呉漢らは行く先々で郡県を陥落させ、その将帥を斬首したが、広阿まで来たとき、「城内に数多くの車馬が待機しております」と報告を受けた。呉漢が軍勢を引きとめつつ「これはどこの軍勢じゃ?」と尋ねると、「大司馬どのの軍勢です」との答え。当時、王郎の任命した大司馬が各地を攻略してまわっていた。そこで呉漢が「大司馬とはどちらさまか?」と尋ねると、「劉公です」との答えだったので、呉漢はそれを聞いて喜び、すぐに城下まで軍勢を進めたのである。

広阿では上谷・漁陽の二郡から援軍が来ると聞いていたが、また王郎が襲撃してきたと言う者もあって、非常に心配を深めていた。劉秀はみずから城壁に登るとともに、使者を出して誰何させた。呉漢らは「上谷の郡兵は劉公にお味方することにいたし、どの部隊も喜び勇まぬ者はありません。耿弇も戻ってきております」と答えた。耿弇が城下で平伏して事情を詳しく言上すると、劉秀は彼らをすぐに城内へ入れ、笑いながら「邯鄲の将帥が何度も『我らは漁陽・上谷の軍隊を動員したのだ』と言うから、私もいちいち『こっちもだ』と答えてきたのだが、まさか本当に二郡が来てくれるとは思わなかったよ」と言った。そして彼らをみな偏将軍*37に取りたて、耿況・彭寵を大将軍*38・列侯*39に任命した。

呉漢は忠実な人柄であったが、学問をあまりしなかったため、とっさには自分の考えをうまく話せなかった。しかし沈着冷静で勇気があり、智略を兼ねそなえていた。訒禹*40を初めとして多くの諸将がそのことを知り、たびたび呉漢を推薦したので、ようやく拝謁を許され、ついに信頼を勝ちとり、門下での常駐を許されるまでになった。

*1:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*2:ちょう。国名。

*3:きょろく。郡名。

*4:こうあ。県名。

*5:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*6:じょうこく。郡名。

*7:たいしゅ。官名。郡の長官。

*8:こうきょう。

*9:いんじゅ。印とその紐。その官職の証とされた。

*10:こうそう。官名。人事担当の重役。

*11:こうじゅん。

*12:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*13:しよく。

*14:しょうへい。県名。

*15:おうろう。群雄の一人。当時、劉子輿(りゅうしよ)と称していた。

*16:もんかえん。官名。

*17:びんぎょう。

*18:かんたん。県名。王郎の根拠地。

*19:りゅうえん。字は伯升(はくしょう)。劉秀の兄。原文では「伯升」と呼び、実名を書かない。

*20:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。

*21:ぎょよう。郡名。

*22:こうえん。耿況の子。

*23:ほうちょう。群雄の一人。

*24:ごかん。

*25:とっき。精鋭騎兵。

*26:りゅうこう。劉秀のこと。

*27:ごぐん。官名。

*28:がいえん。

*29:こど。県名。

*30:れい。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。

*31:おうりょう。

*32:ちょうし。官名。事務次官

*33:とい。官名。太守の副官。

*34:げんせん。

*35:けい。県名。

*36:ちょうこう。

*37:へんしょうぐん。官名。

*38:だいしょうぐん。官名。

*39:れっこう。諸侯。

*40:とうう。