司馬伷は琅邪王なので

ということはだ、司馬伷が琅邪王に封ぜられたのも実は裏の意味があったんじゃないかという気もしてくる。
なにせ王妃の古里だしね。琅邪に入国したあと地元の名士である諸葛氏から王妃を迎えたのかな。と思ったら、移封は司馬炎践祚したあとのことだ。てことは、諸葛誕が叛逆者として誅殺されたあとってことだ。義父が叛逆者として処刑されたにもかかわらず、司馬伷はその義父の地元の国王となり、その娘とのあいだに生まれた子供が司馬覲だったり司馬繇だったりするわけで(諸葛誕が誅殺されたとき司馬覲は5歳かそこいらだったはず)。

東晋を興した司馬睿はその司馬覲の子供で、琅邪出身の王導なんかを重用したわけですな。『漢晋春秋』の習鑿歯がやたら諸葛亮を美化してるのも(ときに美談を捏造しているとも疑わしい感じがかなり)、なにか関係がありそうな気がする。なんにしても司馬睿の母方の祖先を貶めることはできないはずだしねー。