趙戩

『太平御覧』所引『典略』
趙戩は万年の県令に任じられたが、そこで三輔の動乱に出くわしたため、荊州に寄留することにした。劉表は賓客の礼でもって遇した。そのころ平民である平原の禰衡が、この世に冠たる高尚な議論をかかげて京師を往来し、朝廷の名士らを批判していた。南方を訪れて趙戩に会うと、ため息をつきながら言った。「いわゆる鉄ならば干将・莫耶、木ならば椅桐・梓漆、人ならば顔冉・仲弓、というやつだなあ。」のちに招聘されて、魏王の相国掾となった。

『典略』の趙戩に関する記述は『三国志』の裴注でも引用されているが、禰衡の言葉は省略されている。