李堪

『太平御覧』所引『典略』
從興平元年至建安二年,其輭四歳中,(國家東遷,三輔大亂,)咸陽蕭條。後賊李堪等始將部曲入長安,居卓故塢中,拔取酸棗藜藿以給食,發冢取衣蓋形。

卓故塢ってのは郿塢のことかな。しかし長安に入ったというから扶風の郿塢とは違うかもしれない。献帝が洛陽に帰ったのは建安元年だけど、三輔地方では翌二年まで混乱が続いていたという記事。しかも、そのあとは李堪らの諸将が長安入り。鍾繇の存在なんて歯牙にもかけられてない。『魏略』は『典略』の一部と目されているので、この箇所は『魏略輯本』に収められている。