光武帝紀15 「河内に拠る」

劉秀は河内郡を占領、これを足がかりにして黄河対岸の洛陽を窺います。


更始帝*1配下の武陰王*2李軼*3は洛陽*4を守り、尚書*5謝躬*6は鄴*7を守り、それぞれ十万人以上の軍隊を抱えていた。劉秀*8は彼らを警戒し、河内*9を奪取することによって対抗しようと考え、鄧禹*10に相談した。「あなたのお言葉によると、わたしが河内を取ることは、ちょうど高祖*11が関中*12を取るようなものだとのこと。もし蕭何*13がいなければ、だれが関中の人々を懐柔し、高祖に西方の心配をさせないでいられただろうか。あなたは呉漢*14の有能さを示してくれた。今度はわたしの蕭何を示してくれ。」鄧禹は答えた。「寇恂*15は文武の才能を兼ねそなえており、人々をたばねる能力があります。寇恂以外に河内を鎮められる者はおりませぬ。」

劉秀が河内に到着すると、太守*16韓歆*17は城の守りを固めようとした。脩武*18の人である衛文*19は奇策の持ち主で、もともと馮異*20と面識があった。そこで馮異は「衛文を使者として韓歆に降服を勧告しましょう」と進言した。(韓歆は、配下の)岑彭*21が降服を勧めたので、勧告を受けいれた。劉秀は軍鼓の傍らに韓歆を座らせ、彼がすぐに降服しなかったのを責めて首を斬ろうとした。その一方、城内に岑彭がいると聞いて、使者をやって彼を招かせた。

岑彭は劉秀のもとに来て、言った。「大王は河北*22を切りひらいたとお聞きしますが、これこそ天道の助け、百姓たちの幸せというものであります。岑彭は司徒公*23のおかげで命拾いし、今度はまた大王にお会いすることができました。命を投げだして功績を立て、ご恩に報いるつもりです。」劉秀が深くうなづいて彼を受けいれると、岑彭は「韓歆どのは南陽*24の有力者でありますので、任用するのがよろしゅうございます」と言った。韓歆はそのおかげで解放されたのである。

もともと岑彭は劉縯*25のおかげで命拾いし、軍隊をつれて帰属したのであるが、劉縯が殺されたあと、朱鮪*26の校尉*27へと配置替えとなった。のちに潁川*28太守に任じられたものの、道路がふさがっていたため、配下数百人をつれて河内へ行き、同郷の韓歆に身を寄せていたのであった。

このとき馮異を孟津将軍*29、寇恂を河内太守とした。劉秀は寇恂に向かって、「河内は富みさかえ、黄河を抱えて守りとし、北は上党*30に通じ、南は洛陽に迫っておる。わたしはこれを足がかりに成功を収めようと思うのだ。高祖は蕭何を関中の守りとしたが、わたしはあなたに河内を任せよう」と言った。寇恂は官営の竹林を伐採して矢を作り、郡の租税を集めて兵糧にあて、二千匹の馬を飼って軍馬にあてた。

さて、劉隆*31は字*32を元伯*33といい、劉秀の親戚にあたる。更始帝の初期、偏将軍*34となり、昆陽*35の戦いに参加した。更始帝が関中入りしたとき、妻子を呼んで洛陽に入った。劉秀が河北にいると聞いて、劉隆は一人で出かけて劉秀に身を寄せ、騎都尉*36に任命され、馮異とともに洛陽を守れと命じられた。李軼は劉隆が劉秀に寝返ったことを知り、劉隆の妻子を皆殺しにした。

河北が平定されたので、(劉秀は)呉漢・岑彭を派遣して謝躬を攻撃させた。謝躬はこのとき隆慮*37において五校*38と対峙しており、鄴城は大将軍*39劉慶*40に守らせていた。呉漢は魏郡*41太守陳康*42を説得した。「一番よいのは危険の中から安全を求めること、二番目は危険の中から手柄を立てること、最悪なのは危険の中にいるまま自滅することです。滅亡への結末は、人間が原因を作っているのです。あなたもご存じのように、いま京都は壊滅して四方は混乱するなか、劉公*43は行くさきざきを平定しておられます。謝尚書どのは身のほどもわきまえず、蕭王*44さまに刃向かって河北の人望を失いました。あなたは孤立した城を守り、滅亡を待っておられますが、義理を立てることも、節義を成すこともできますまい。城門を開いて軍勢を入れ、災いを転じて福となすべきです。」

そこで陳康は劉慶と謝躬の妻子を捕まえ、城門を開いて呉漢らの軍隊を引きいれた。謝躬は呉漢らが迫りきたと聞いて、数百騎の軽騎兵を率い、夜中に鄴へ帰ってきたが、呉漢がすでに鄴城を手に入れていることは知らなかった。呉漢が城外、岑彭が城内に潜み、城門を開いて謝躬を招きいれ、彼が宿舎に入ろうとしたところを挟み撃ちにして殺した。

最初、更始帝は、謝躬に馬武*45らの六人の将軍を率いさせ、劉秀とともに河北を平定するよう命じていた。王郎*46が平定されたとき、謝躬は劉秀とともに邯鄲*47にあり、城内を区切ってそれぞれの領地とした。謝躬の領地では諸将の多くが好き勝手をし、百姓たちを苦しめたが、謝躬は彼らを取り締まることができなかった。また、たびたび劉秀と喧嘩して、いつも襲撃してやろうと思っていたが、相手の兵力が大きいために諦めていた。とはいえ、謝躬は公務に励み、赴任先ではどこでも公正な裁判を行い、劉秀はつねづね「謝尚書どのは本物のお役人だ」と褒めたたえていた。謝躬はそのせいで警戒心を欠いていて、彼の妻子はいつも「最後には劉公に屈服することになるでしょう」と言っていたのであった。

馬武は字を子張*48といい、南陽湖陽*49の人である。若いころ、人に恨まれたので緑林*50に身を隠した。挙兵後、甄阜*51・二大臣*52の攻撃に参加、その機会に劉秀はいつも馬武を招いて会っていた。邯鄲が平定されると、劉秀は宮殿に入り、のんびりと馬武に告げた。「わたしは漁陽*53・上谷*54の突騎*55を手に入れた。将軍にお任せしようと思うのだが、どうだろう?」馬武は辞退して受けとらなかったが、心から劉秀に帰依した。(謝躬が滅ぼされたのち、)馬武が降服すると、帳下*56に配属された。(劉秀が)諸将を招いて酒宴を開くたび、馬武は率先して酌をしてまわり、自分が新参者だということで謙虚に振るまい、南陽時代の連中と張りあおうとはしなかった。劉秀はそのことを喜ばしく思った。

冬十二月、赤眉*57軍が西進して関中に侵入してきたので、更始帝の定国上公*58王匡*59・襄邑王*60成丹*61・抗威王*62劉均*63は河東*64を守り、丞相*65李松*66・大司馬*67朱鮪*68は弘農*69を守って、彼らを防いだ。劉秀は「長安*70は負けるに違いないが、いま山東*71ではごたごたが続いているので、関西*72を手に入れられる者はなかろう」と考え、そこで鄧禹を前将軍*73に任じて全軍のちょうど半分を与え、西進して関中入りさせた。韓歆を軍帥*74、李文*75・程憲*76・李春*77を祭酒*78、馮愔*79を積弩将軍*80、樊崇*81を驍騎将軍*82、宗歆*83を大将軍*84、鄧尋*85建武将軍*86、耿訢*87を赤眉将軍*88、左于*89を軍師将軍*90とし、武装兵は二万人である。劉秀は野王*91において鄧禹を見送った。

劉秀が引き返して猟に出かけたとき、途中で、二人の者が鳥を捕っているのを見つけた。劉秀が「鳥はどこへ行ったのかね?」と言うと、二人は西方を指差して「あっちには虎がたくさんいて、わたしたちが鳥を捕まえようとすると、虎のほうがわたしたちを捕まえようとします。大王さま、行ってはいけませんよ」と言った。劉秀は「準備さえしておれば虎など怖くはないさ」と言ったが、二人は「大王さまは間違っておられます!むかし湯*92は鳴条*93で桀*94を捕まえたあと、亳*95に巨大な城を築きました。防備が不充分だったわけではないのに、武王*96は紂*97を捕まえて殺しました。他人を捕まえようとする者は、他人に捕まえられるのです。厳重に準備しても、どうして充分ということがありましょうか?」と反対した。劉秀は納得できなかったが、左右の者に「これは隠者だよ」と告げて登用しようとしたが、(二人は)別れも告げずに立ち去った。

*1:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*2:ぶいんおう。

*3:りいつ。

*4:らくよう。県名。

*5:しょうしょ。官名。書記官。

*6:しゃきゅう。

*7:ぎょう。県名。

*8:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*9:かだい。郡名。

*10:とうう。

*11:劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*12:かんちゅう。函谷関の内側、長安の一帯。

*13:しょうか。高祖の宰相。

*14:ごかん。

*15:こうじゅん。

*16:たいしゅ。官名。郡の長官。

*17:かんきん。

*18:しゅうぶ。県名。原文では「武」とあるが改める。

*19:えいぶん。

*20:ふうい。

*21:しんぽう。

*22:かほく。黄河北岸の平原地帯。

*23:しとこう。官名。民政担当の大大臣。ここでは劉縯を指す。

*24:なんよう。郡名。

*25:りゅうえん。字は伯升(はくしょう)。劉秀の兄。原文では「伯升」と呼び、実名を書かない。

*26:しゅい。

*27:こうい。官名。将校。

*28:えいせん。郡名。

*29:もうしんしょうぐん。官名。孟津は河内から洛陽に通ずる黄河の渡し場。

*30:じょうとう。郡名。

*31:りゅうりゅう。

*32:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*33:げんぱく。

*34:へんしょうぐん。官名。

*35:こんよう。県名。

*36:きとい。官名。騎兵隊長。

*37:りゅうりょ。地名。

*38:ごこう。盗賊集団の一つ。

*39:だいしょうぐん。官名。

*40:りゅうけい。

*41:ぎぐん。郡名。

*42:ちんこう。

*43:りゅうこう。劉秀のこと。

*44:しょうおう。蕭国の国王。劉秀のこと。

*45:ばぶ。

*46:おうろう。群雄の一人。

*47:かんたん。県名。王郎の根拠地。

*48:しちょう。

*49:こよう。県名。

*50:りょくりん。盗賊集団の一つ。その頭目から出たのが更始帝

*51:けんふ。

*52:王尋(おうじん)・王邑(おうゆう)のこと。ともに王莽(おうもう)の大臣。

*53:ぎょよう。郡名。

*54:じょうこく。郡名。

*55:とっき。精鋭騎兵。

*56:ちょうか。側近のこと。

*57:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。

*58:ていこくじょうこう。官名。名誉大大臣。

*59:おうきょう。

*60:じょうゆうおう。

*61:せいたん。

*62:こういおう。『後漢書』では「抗威将軍」。

*63:りゅうきん。

*64:かとう。郡名。

*65:じょうしょう。官名。宰相。

*66:りしょう。

*67:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。

*68:しゅい。

*69:こうのう。郡名。

*70:ちょうあん。県名。前漢、新の王莽が都とした地。

*71:さんとう。嵩山の東。

*72:かんせい。函谷関以西。

*73:ぜんしょうぐん。官名。

*74:ぐんすい。官名。「軍師」の誤りとも。

*75:りぶん。

*76:ていけん。『後漢書』では「程慮」(ていりょ)。

*77:りしゅん。

*78:さいしゅ。官名。議長。

*79:ふういん。

*80:せきどしょうぐん。官名。積弩は「弩(いしゆみ)を集積する」の意。

*81:はんすう。

*82:ぎょうきしょうぐん。官名。驍騎は「勇敢な騎兵」の意。

*83:そうきん。

*84:だいしょうぐん。官名。前将軍鄧禹の副将としては官位が高すぎるとの指摘がある。『後漢書』では「車騎将軍」(しゃきしょうぐん)とある。

*85:とうじん。

*86:けんぶしょうぐん。官名。建武は「武功を建てる」の意。

*87:こうきん。

*88:せきびしょうぐん。官名。「赤眉軍を討伐する」の意だろうか。

*89:さう。

*90:ぐんししょうぐん。官名。原文では「軍師」とあるが『後漢書』により改める。

*91:やおう。県名。

*92:とう。殷(いん)の湯王。夏の桀王を討伐して殷王朝を築く。

*93:めいじょう。地名。

*94:けつ。古代、夏(か)の暴君。

*95:はく。地名。

*96:ぶおう。周(しゅう)の武王。殷の紂王を討伐して周王朝を築く。

*97:ちゅう。古代、殷(いん)の暴君。湯王の子孫。