光武帝紀16 「李軼 死す」
かつて劉秀とともに挙兵した盟友であり、劉縯を殺した仇敵でもある李軼が、ついに命を落とします。ここからは『後漢紀』第三巻へ。
建武*1元年*2の春正月、鄧禹*3が安邑*4に攻撃をかけた。王匡*5・成丹*6・劉均*7らは合わせて十万人あまりの軍勢でもって鄧禹に一斉攻撃をかけた。鄧禹は劣勢となり、驍騎将軍*8樊崇*9が戦いのさなかに死んだ。
ちょうど日暮れとなり、兵士たちも疲労していたので、韓歆*10や諸将は「(我が軍が)戦いに敗れて敵軍は士気を高めておりますゆえ、夜陰を利用して撤退すべきです」と進言したが、鄧禹は聞きいれなかった。翌日は癸亥*11にあたり、王匡らは干支の最後の日だということで、出撃してこなかった。そのおかげで鄧禹は戦力を集めることができた。
(翌日、)「王匡らが出撃してきても妄動してはならぬ!陣営の直前まで来てから攻撃せよ」と命令を下した。王匡らが全軍で押しよせると、鄧禹は軍鼓を打ちならしながら一斉に進撃し、敵軍を大破、劉均・河東*12太守*13楊宝*14を斬り、そのまま一気に河東を平定した。鄧禹は詔勅が下されたとして軍祭酒*15李文*16を太守とし、令*17をすべて入れかえて鎮撫にあたらせた。
劉秀*18は元氏*19にあって銅馬*20を攻撃していた。耿弇*21・呉漢*22に精兵をさずけて先鋒とし、敵軍を大破、慎水*23の北岸まで追撃した。漢軍が勝利に乗じて追いつめると、賊兵はみな必死で戦い、漢軍のほうが壊滅してしまった。劉秀が自分で刃物を振りまわして賊兵を防ごうとしたほどである。まだ衝突しないうち、耿弇が矢を射かけたので賊兵は進んでこられなかった。(慎水の)岸壁は登ることができないほど高かったが、劉秀は馬を捨てて自分で飛びおりた。ちょうど突騎*24の王豊*25と出くわし、王豊は自分の馬を劉秀に献上した。劉秀は王豊の肩をなでながら、「もう少しで賊兵どもに突っつかれる*26ところだったよ」と言った。馬武*27が後ろにいて精一杯に戦ったので、賊兵は進むことができなかった。
兵士たちは逃げちって、我先に范陽*28へ立てこもったが、「王さまがお亡くなりになった」と言う者もあり、軍隊は恐慌状態に陥ってなすすべを知らない有様。呉漢が「大王の甥御どのが南陽*29におられ、心配はいらない」と言っているうちに、しばらくして劉秀が戻ってきたので、兵士たちはようやく元気になった。夜中、賊軍が引きあげて漁陽*30に立てこもったので、これを撃破した。呉漢が別働隊として右北平*31まで追撃、三千人あまりを斬首した。
更始帝*32は廩丘王*33田立*34・大司馬*35朱鮪*36・白虎公*37陳僑*38に三十万人をさずけ、李軼*39を支援させて洛陽*40を守った。馮異*41は李軼に手紙を送った。「鏡は姿を映し、過去は現在を映すと申します。むかし微子*42は殷*43を去って周*44に入り、項伯*45は楚*46に叛いて漢に帰り、周勃*47は代王*48を迎えて少帝*49を廃し、霍光*50は孝宣*51を尊んで昌邑*52を廃しました。彼らはみな天意を恐れて運命を知っていたのです。いま長安は破壊されて赤眉*53が近郊におり、王侯は抗争して大臣は仲違いし、四方が崩壊して異姓の者が一斉に立ちあがりました。これは劉氏にとって憂うべきことです。」
さらに言う。「それゆえ蕭王*54は雪霜を踏みこえ、矢玉を冒して河北*55を攻略したのです。英俊たちが雲のごとく集まり、百姓たちは心服いたしました。いま馬子張*56らがみな信頼と爵位を回復したのはこのとおり、謝躬*57は刃向かったため処罰されたのはあのとおり。これも明らかな事実です。季文*58どのはくれぐれもお気づきになり、大いなる計画を速やかに決断すべきです。災いを転じて福となすのは、まさにこのときなのです。猛将が駆けつけて厳しく包囲したあとでは、後悔しても取りかえしが付きませぬぞ。」
李軼はむかし劉縯*59殺害をそそのかしたことがあったので、降服したくても怖くてできなかったのである。そこで劉秀に受けいれてもらおうと思い、李軼は馮異に返事を書いた。「李軼はもともと蕭王どのと計画を立て、死生の契りを結びましたが、事情があって離ればなれになりました。いま李軼は洛陽を守り、将軍は孟津*60を鎮めておられます。ともに要衝をあずかっておるのは千載一遇の好機、断金の交わりを結びたく思います。とにかく蕭王どのにはよくよくお伝えいただき、国家を補佐して民衆を鎮撫すべく、愚策を献言できるように取りはからってください。」
馮異が李軼の手紙を提示すると、劉秀は手紙を書いて「季文どのは嘘ばかりを言うので、みんな、あいつの首根っこを押さえることができないのだ。いまはその手紙を回し読みさせて、守*61・尉*62に警備を固めるように告げよう」と馮異に伝えた。大軍を抱え、名のある都市を守っている李軼が降服の意志を持っているのだからと、人々は、劉秀が李軼の手紙を暴露した理由が分からなかった。李軼の手紙がすっかり知れわたると、朱鮪はその手紙の内容を知って李軼を殺した。洛陽の大軍はばらばらになり、城を出てきて降服する者も多かった。
劉秀が北方へ向かったとき、朱鮪は蘇茂*63に三万人をあずけて黄河対岸の温*64を襲撃させ、朱鮪自身は数万人を率いて平陰*65を攻撃した。寇恂*66はそこで属県の兵士を動員し、「温へ行き、寇恂のもとに結集せよ」と命じた。軍の役人たちは、みな「洛陽の軍隊が黄河を渡ったら、先鋒と殿軍が分断されてしまいます。兵士の集結を待ってから攻撃すべきです」と反対したが、寇恂は「温こそは郡の防壁。温を失陥すれば郡を守りきることができんのだ」と言い、すぐさま急行した。
翌朝、まだ兵士たちは集合していなかったが、ちょうど馮異が到着した。そこで寇恂は兵卒たちに命じて城壁に登らせ、軍鼓を打ちならしながら「公*67の軍隊が到着したぞ!」と叫ばせる。蘇茂の陣営に動揺が走るのをみて、突撃を食らわし、大いに打ち破った。蘇茂軍のうち半数以上は黄河に落ちて死んだ。副将の賈彊*68を斬り、勝利に乗じて黄河を渡り、洛陽城を一巡りしてから引きあげた。それ以来、洛陽は震えおののき、昼間でも城門を閉ざすようになった。最初は朱鮪が河内*69を陥落させたとの報告を聞いていたが、そのあと寇恂からの報告が届いたので、劉秀は大喜びして言った。「寇子翼*70になら任せられると分かっていたんだ。」
李熊*72が公孫述*73を説得して言った。「山東*74では飢えに苦しみ、都市が廃墟と化しております。いま蜀*75の土地は豊沃であり、生産しなくても腹一杯になるほどです。女工の仕事は天下に着物をめぐんでおり、陸上には器械の便利さ、水上には運漕の便利さがあり、北は漢中*76の褒斜谷*77の要害、東は巴郡*78の扞関*79の要害があります。面積は数千里四方、兵士は百万人もあり、好機があれば出撃して土地を取り、好機がなければ堅守して農業に務め、東は漢水*80に乗って秦*81の地を窺い、南は長江に乗って荊*82・揚*83を脅します。いわゆる天地を用いることが成功の元手というやつです。いま君王の名声は天下にひびいておりますが、称号が決まっていないので、有志たちは戸惑っております。偉大なる位に登り、遠方の人々にも知らしめられますよう。」公孫述はもっともだと思った。役所内に龍が出現して夜中に光を発したが、公孫述はこれこそ瑞兆なのだろうと考えた。
夏四月、公孫述は独立して天子の位についた。
広漢*84の李業*85は字*86を巨遊*87といい、かつては郎*88であった。王莽*89が政権を握ると、病気を口実に退官し、お召しにも応じず、山谷に隠れ住んだ。公孫述はかねて李業の評判を聞いており、博士*90に任用しようとしたが、(李業は)病気だと言って仕官しなかった。公孫述は李業が来ないのを屈辱と感じ、「李業が仕官すれば高官を授けよ。仕官せねば鴆毒*91を与えよ」と言い、大鴻臚*92尹融*93に鴆毒を持たせて詔勅を伝えた。尹融は李業を説得した。「いま天下は三つに分かれ、どれが正しく、どれが正しくないのか分かりません。どうして小さな身体でもって不可知の泉に投じることができましょう!朝廷は名声徳行を好まれ、あなたを大切に思っておられます。どうか、知己を尊重され、妻子に配慮されますように。生命と名声をともに全うするのですから、結構なことではありませんか?」
李業はため息をついた。「『危険な国には行かず、乱れた国には住まない』*94と言うのは、まさにこのこと。君子は危険に遭遇して命を捨てるのです。どうして高官ごときで誘うことができましょう?」尹融は(李業の)決意がますます堅くなるのをみて、「奥様を呼んでご相談くだされ」と言い方を変えてみた。李業は「大丈夫たる者、心中で下した決断は永久に保ちつづけるもの。妻子の行為がどうだと言うのか?」ついに鴆毒を飲みほして死んだ。
*1:けんむ。劉秀(りゅうしゅう)の建てた年号。
*2:西暦25年。
*3:とうう。
*4:あんゆう。県名。
*5:おうきょう。
*6:せいたん。
*7:りゅうきん。
*8:ぎょうきしょうぐん。官名。驍騎は「勇敢な騎兵」の意。
*9:はんすう。
*10:かんきん。
*11:みずのとい。
*12:かとう。郡名。
*13:たいしゅ。官名。郡の長官。
*14:ようほう。
*15:ぐんさいしゅ。官名。議長。単に「祭酒」とも。
*16:りぶん。
*17:れい。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。
*19:げんし。県名。
*20:どうば。盗賊集団の一つ。
*21:こうえん。
*22:ごかん。
*23:しんすい。河川名。正しくは「順水」(じゅんすい)。
*24:とっき。精鋭騎兵。
*25:おうほう。
*27:ばぶ。
*28:はんよう。県名。
*29:なんよう。郡名。劉秀らの出身地。
*30:ぎょよう。県名。
*31:うほくへい。郡名。
*32:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。
*33:りんきゅうおう。
*34:でんりつ
*35:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。
*36:しゅい。
*37:びゃっここう。
*38:ちんきょう。
*39:りいつ。
*40:らくよう。県名。
*41:ふうい。
*42:びし。殷(いん)の王族だったが周(しゅう)に帰服した。
*43:いん。
*44:しゅう。
*46:そ。
*48:だいおう。のちの文帝(ぶんてい)・劉恒(りゅうこう)のこと。
*49:しょうてい。劉弘(りゅうこう)のこと。
*51:こうせん。孝宣帝・劉詢(りゅうじゅん)のこと。
*52:しょうゆう。昌邑王・劉賀(りゅうが)のこと。
*53:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。
*54:しょうおう。蕭国の国王。劉秀のこと。
*56:ばしちょう。馬武のこと。子張は字(あざな)。
*58:きぶん。李軼の字(あざな)。
*59:りゅうえん。字(あざな)は伯升(はくしょう)。劉秀の兄。原文では「伯升」と呼び、実名を書かない。
*61:しゅ。官名。太守のこと。
*62:い。官名。都尉(とい)のこと。
*63:そも。
*64:おん。県名。
*65:へいいん。県名。
*66:こうじゅん。
*67:こう。劉秀を指す。
*68:かきょう。
*69:かだい。郡名。
*70:こうしよく。子翼は字(あざな)。
*71:ぼうきょう。郷名。
*72:りゆう。
*73:こうそんじゅつ。群雄の一人。
*74:さんとう。嵩山の東。
*75:しょく。地名。
*76:かんちゅう。郡名。
*77:ほうやこく。谷名。褒谷と斜谷。
*78:はぐん。郡名。
*79:かんかん。関名。
*80:かんすい。河川名。
*81:しん。地名。
*82:けい。州名。
*83:よう。州名。
*84:こうかん。郡名。
*85:りぎょう。
*86:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。
*87:きょゆう。
*88:ろう。官名。
*90:はくし。官名。
*91:ちんどく。毒鳥から採取した毒を酒に溶かしたもの。
*92:だいこうろ。官名。九卿の一つ。外交接待を担当する大臣。
*93:いんゆう。