官渡後の袁氏

袁氏は建安五年(二〇〇)の官渡の戦いに敗れてから急速に衰退していった……と思われがちだけど、
袁尚兄弟が斬られて袁氏の影が完全に河北から完全消滅したのは建安十二年(二〇七)。官渡の戦いから七年が経過している。官渡の年から七年後に滅亡したのであれば、では七年前はどうか。初平四年(一九三)は魏郡の反乱を鎮めて袁氏が冀州における実効支配を固めた年である(韓馥から冀州牧の地位を奪ったのがその前々年だけど公孫瓚らの妨害もあって支配権を十分に確立できなかった)。

つまり曹操は、袁氏が七年かけて築いた基盤を解体するのに、やはり七年を必要としたわけで、官渡の年をピークとしてそれ以前と同じくらいの長い期間、以後も命脈を保ちつづけたのだから、袁氏の地力はなかなかすばらしいものだったといえる。

ネット上で官渡後の袁氏について言及する人は少ない。袁氏の実力と存在感が理解されてないからだろう。この時期、劉備孫権の動きも不思議と少なく、『三国演義』でも七年もの長期間をさらっと書かれるだけである。袁・曹以外に勢力図を塗りかえるほどの動きが見られないことが、この時期があまり注目されない要因ではないだろうか。その結果、袁兄弟の存在が軽視されているのだ。