盧植は幽霊の子孫

世説新語』『捜神記』より。
まず、『世説新語』の本文から。

(原文)
盧志於眾坐問陸士衡:「陸遜陸抗,是君何物?」答曰:「如卿於盧毓、盧珽。」士龍失色。雲別見。既出戶,謂兄曰:「何至如此,彼容不相知也?」士衡正色曰:「我祖名播海內,甯有不知?鬼子敢爾!」議者疑二陸優劣,謝公以此定之。

(訳文)
盧志は、人々の同席するなか、陸士衡(陸機)に訊ねた。「陸遜とか陸抗とかいうのは、あなたにとってどういう関係にあたりますかな?」陸士衡の答え。「あなたにとっての盧毓とか盧珽とかいうのと同じですね。」


陸士龍(陸雲)はさっと青ざめ、退出したあと、兄に向かって言った。「どうしてあそこまで…。あいつが大目に見てくれるとは限らなかったんですよ。」陸士衡は厳しい顔つきで言った。「わが祖先の名声は天下に鳴りひびいておる。それを知らなかったはずがないのに、あいつは幽霊の子孫のくせにあんなことを言いやがったのだ。」


人々は陸兄弟の優劣を量りかねていたが、謝公(謝安)はこの一件によって評価を決めたのだった。

つづいて、『世説新語』劉孝標注。ちょっと『捜神記』を参考にしつつ。

(原文)
孔氏志怪曰:「盧充者,范陽人。家西三十里有崔少府墓。充先冬至一日,出家西獵,見一獐,舉弓而射,即中之。獐倒而復起,充逐之,不覺遠。忽見一里門如府舍,門中一鈴下有唱家前。充問:『此何府也?』答曰:『少府府也。』充曰:『我衣惡,那得見貴人?』即有人提襥新衣迎之。充著盡可體,便進見少府,展姓名。酒炙數行,崔曰:『近得尊府君書,為君索小女婚,故相延耳。』即舉書示充。充,父亡時雖小,然已見父手跡,便歔欷無辭。崔即敕內,令女郎莊嚴,使充就東廊。充至,婦已下車,立席頭,共拜。為三日畢,還見崔。崔曰:『君可歸矣。女有娠相,生男,當以相還;生女,當留自養。』敕外嚴車送客。崔送至門,執手零涕,離別之感,無異生人。復致衣一襲,被褥一副。充便上車,去如電逝,須臾至家。家人相見,悲喜推問,知崔是亡人,而入其墓,追以懊惋。居四年,三月三日臨水戲,忽見一犢車,乍浮乍沒。既上岸,充往開車後戶,見崔氏女與三歲男兒共載。充見之忻然,欲捉其手。女舉手指後車曰:『府君見人。』即見少府,充往問訊。女抱兒還充,又與金盌,別,并贈詩曰:『煌煌靈芝質,光麗何猗猗!華豔當時顯,嘉異表神奇。含英未及秀,中夏罹霜萎。榮曜長幽滅,世路永無施。不悟陰陽運,哲人忽來儀。會淺離別速,皆由靈與祇。何以贈余親,金盌可頤兒。愛恩從此別,斷絕傷肝脾。』充取兒盌及詩,忽不見二車處。將兒還,四坐謂是鬼魅,僉遙唾之,形如故。問兒:『誰是汝父?』兒逕就充懷。眾初怪惡,傳省其詩,慨然歎死生之玄通也。充詣市賣盌,高舉其價,不欲速售,冀有識者。欻有一老婢,問充得盌之由。還報其大家,即女姨也。遣視之,果是。謂充曰:『我姨姊,崔少府女,未嫁而亡,家親痛之,贈一金盌,箸棺中。今視卿盌甚似,得盌本末,可得聞不?』充以事對。即詣充家迎兒。兒有崔氏狀,又似充貌。姨曰:『我舅甥三月末閒產。父曰春暖,溫也,願休強也。即字溫休。溫休蓋幽婚也。其兆先彰矣。兒遂成為令器。歷數郡二千石,皆著績。其後生植,為漢尚書。植子毓,為魏司空。冠蓋相承至今也。」

(訳文)
孔氏『志怪』に言う。


盧充というのは范陽の人である。盧家から西へ三十里に崔少府の墓があった。盧充は冬至の前日、西の方へ狩猟に出かけた。一頭のノロ鹿を見つけたので、弓を取りだして発射し、うまく命中させた。ノロ鹿はいちど倒れたあと立ちあがったので、盧充はそいつを追いかけていくうちについ遠くまで来てしてしまった。


ふと、一里さきに役所らしき建物の門が目に入った。門番の小僧がその前で歌をうたっている。盧充が「ここは何のお役所ですかな?」と訊ねると、「少府どののお役所です」との答え。盧充が「こんな粗末な着物では、大臣どののお目にかかることはできないなあ」と言ったその瞬間、ぴかぴかの着物と頭巾をもった人が現れ、役所内に迎えいれた。盧充はそれを着て、すっかり礼装を整えると、すぐに崔少府に拝謁して自己紹介をした。酒と肉とを互いに数回、勧めあってから、崔少府が言った。「先日、あなたの父君からお手紙を頂戴してね。末娘をあなたに輿入れさせようと思って、お招きしたのじゃ。」そう言うと、盧充に手紙を見せた。盧充は幼いころ父を亡くしたが、父の筆跡を知っていたので、手紙を見たとたんにむせび泣いて言葉も出なかった。


崔少府はすぐさま家族に命じて少女におめかしをさせ、盧充には東廊下に行かせた。盧充がそこに行ったとき、女性はもう馬車をおりて座席の傍らに立っていたので、お互いに挨拶を交わした。三日間の儀式を終えたあと、崔少府のもとに戻ると、崔少府は「あなたは帰りなさい。娘は妊娠している様子だ。男の子が生まれたらお返しいたそう。女の子が生まれたらここに残してわしが育てるつもりだ。」そして部下に命じて客人を送りだすべく馬車を飾らせた。崔少府は門前まで見送りに出ると、(盧充の)手をとって涙を流し、別れを惜しんだ。その様子は生きている人間と変わりない。さらに着物を一揃い、寝巻と布団を一組もらい、盧充は馬車に乗った。


電気のように走りぬけ、あっという間に家に着いた。家族は彼の姿を見るや悲喜こもごも、どうしていたのかと質問責めであった。そこで崔少府が死者であること、自分が彼の墓に入っていたことを知り、思いだすにつけ愕然として苦悩するのであった。


四年後の三月三日に水浴びをしていると、ふと一台の牛車が(川に)浮いたり沈んだりしているのが見えた。岸辺に引きあげて盧充が後ろの扉を開けてみると、なんと崔少府の娘が三歳の男の子といっしょに乗っていたのである。盧充が喜んで娘の手を取ろうとすると、娘は振りかえって後からくる馬車を指差し、「府君さまがお会いになるそうです」と言った。すると崔少府があらわれたので、盧充は近づいて挨拶をした。娘は子供を抱きかかえて盧充に渡し、また黄金の小鉢を差しだした。(娘は)別れのときにも、詩を贈った。「きらきらとした霊芝の本質、その輝きのなんと美しいこと。華やかさは季節とともに現れ、奇跡を称えて神秘を表彰します。花房を含みつつまだ開花せず、中夏は霜にかかって縮みます。栄華は久しく隠れひそみ、出世はとわに行われません。陰陽の巡りあわせを知らず、哲人はとつぜん到来しました。お会いできる時はみじかく別れははやく、すべては神霊のなせるわざ。なにを身内にお贈りしましょう。黄金の小鉢なら子供を育てる役に立ちましょう。愛情もここでお別れです。お別れで内臓も張りさけんばかりです。」盧充が子供と小鉢、それに詩を受けとると、忽然として車は二両とも消えてしまった。


子供を連れてかえると、隣人たちが「そいつは妖怪だ」と言って、みな遠くから唾を吐きかけたが、姿形はそのままであった。そこで「お前の父親はだれじゃ?」と子供に訊ねると、子供はまっすぐ盧充のふところに飛びこんだ。人々は最初のうち嫌悪感を抱いていたが、詩を回し読みすると、生者と死者は深いところでつながっているのだなあと、ため息をついた。


盧充は市場へ行って小鉢をせりに出すと、どんどんと値段が吊りあがるので、すぐに手放すのが惜しくなり、目利きを探してみることにした。ふと、一人の年老いた女中が現れて、小鉢をどうやって入手したのかと盧充に訊ねてきた。(老女中は)帰って主人に知らせたが、それが娘の伯母だったのである。(伯母が我が子を)出して確かめさせると、まさしく女中の言うとおりであった。(伯母の子は)盧充に語りかけた。「わたしの叔母婿の崔少府の娘は結婚しないうちに死んでしまったので、家族が悲しんで黄金の小鉢を贈りものにして棺桶のなかに入れました。今日はあなたの小鉢が瓜二つなのを見たのですが、入手のいきさつをお聞かせ願えますか?」盧充はありのままに話した。(その報告を聞いた伯母が)盧充の家へ行って子供に対面すると、その子には崔氏の面影があり、また盧充の顔にも似ていた。伯母は言った。「わたしの姪(盧充の妻)は三月の末に生まれました。父親(崔少府)は『春の暖かさを温というし、休(めでたさ)のしたたかであることを願いたいものだ。』それで(姪は)字を温休というのです。温休というのは幽婚という意味ですから、その兆しが現れたのでしょう。」


(盧充の)子供はのちに立派な人物に成長し、いくつかの郡の太守を歴任、どこにいても業績を挙げた。のちに盧植が生まれて漢の尚書となり、盧植の子の盧毓が魏の司空となり、大臣の身分を受けついで現在に至っているのである。


別れの詩はワケワカメなのでかなり適当です。最後の伯母が出てくるシーンでは主語がはっきりしないので『捜神記』を参考にして補いました。三月三日の水浴びは桃の節句での儀式の一つでしょう。隣人が唾を吐きかけたのは妖怪の正体を明かす呪術なんでしょうね。温休(wen xiu)が幽婚(you hun)という意味だというのは現代中国語だとよく分かりませんが、むしろ現代日本語でローマ字表記した方が分かりやすいかもしれません。温休(on-kyuu)の母音部分を入れかえて幽婚(yuu-kon)というわけです。あと伯母周辺で続柄が混乱しがちですが、『捜神記』を参考にすると、崔少府の妻の姉が、この伯母であるということのようです。盧充の妻からみれば母方の伯母にあたります。盧充の子(盧植の父)の名は伝わっていません。