侯景の南京虐殺? その2

前回に引きつづき、侯景について。
日本軍の起こした南京事件にからめて、梁の侯景の南京攻めを語っているのには黄文雄さんと東中野修道さんがありますが、それぞれの主張は少しづつ相違点がありながらも日本軍を免罪する意図に共通しています。

黄さんの主張はdeliciousicecoffeeさんの引用から考えることにします。東中野さんの主張はホドロフスキさんが引用されています。両氏の論旨を整理すると次のようになります。

南京は歴史上、陥落するたびに虐殺事件を経験している。侯景による「南京大虐殺」もその一つ。そのため中国の人々は、日本軍が南京を陥落させたと聞いて、過去の事件の類推から、大規模な虐殺事件があったに違いないと誤信しているのだ。南京陥落と聞けば自動的に大虐殺を連想するのであって、日本軍の実際の行動を観察したうえで南京事件を批判しているのではない。よって、被害当事者が訴えていることを理由に、日本軍による虐殺を認めることはできない。

黄さんの主張の根拠となっているのがどの文献なのかは明らかでありませんが、東中野修道さんは『資治通鑑』の549年だと明言しています。ところが、『資治通鑑』549年には東中野さんの主張を裏付ける記述はありません。おそらく東中野さんの勘違いでしょう。よって、東中野さんの主張は誤りです。

ところで、黄・東中野両氏との関連は分かりませんが、【マルコおいちゃんのヤダヤダ日記】というブログが「梁の武帝時代の『侯景の乱』による『南京大虐殺』が有名です」と論述しています。東中野さんと違って、自説の論拠をはっきり記しているのでこちらも確認作業がやりやすいです。このブログによる、侯景の虐殺の論拠は次のとおりです。

資治通鑑』によれば、548年から550年の三年間に「南京大虐殺」が発生したようです。

「軍中食に乏しく、そこで士卒をして民の米、金帛、子女を掠奪させた。この後米は一升が七八万銭に至り、(米を買えない)人は相食う。飢えたもの十中五六」と。(梁記、武帝太清二年)

「初、閉城(城門を閉じて篭城)の日、男女十余万。擐甲(武装した)者二万余人。囲まれて久しく、人の多くは身体が腫れ咳き込み、死者は十中八九」と。(同、太清三年)

「景の乱より、道路は断絶し、数ヶ月の間、人は相食うに至る。猶餓死を免れたもの十中一二」と。同、太清三年)

おっとっとー。これは前回、わたしが指摘した「どれも南京でなかったり、小規模であったり、規模不明であったりする」事例ですらないですよ。この三点、いずれも侯景の南京虐殺とするには不適切です。

まず第一の点、

「軍中食に乏しく、そこで士卒をして民の米、金帛、子女を掠奪させた。この後米は一升が七八万銭に至り、(米を買えない)人は相食う。飢えたもの十中五六」と。(梁記、武帝太清二年)

これを原文から前後を引用すると、

(原文)景初至建康,謂朝夕可拔,號令嚴整,士卒不敢侵暴。及屢攻不克,人心離沮。景恐援兵四集,一旦潰去;又食石頭常平諸倉既盡,軍中乏食;乃縱士卒掠奪民米及金帛子女。是後米一升直七八萬錢,人相食,餓死者什五六。
(訳文)侯景は建康に来た当初、朝晩にも陥落させられるだろうと思っていて、号令をかけて軍紀を粛正させたので、兵士たちは略奪を働こうとはしなかった。その後、なんども攻撃をかけても陥落させられなかったため、人々は落ちこんで気持ちがばらばらになった。侯景は(南京側の)援軍が四方から集まってくれば、いちどで敗走することになるだろうと心配になった。しかも石頭・常平などの食料庫はすでに食いつぶし、軍隊の食料は欠乏してきた。そこで兵士らを自由にさせ、民衆の米や金銭、絹、若い男女などを略奪させた。それ以来、米の価格は一升で七・八万銭にのぼり、人々は互いを食らいあい、餓死するものは十中の五・六人にものぼった。

となります。引用の仕方、翻訳にとくに問題はないように思います。……が、

えーと……。そもそも、これのどこが「大虐殺」なんですか?

侯景が民衆の米、金銭、絹、若い男女を略奪したことは非難されてしかるべきでしょう。しかし、ここでは、侯景が民衆を殺したとは書いておりません。これを「大虐殺」の論拠に使うのははなはだ不適切です。というより、虐殺でないものを虐殺だと言うのは不誠実ではないでしょうか。

つづいて第二点、

「初、閉城(城門を閉じて篭城)の日、男女十余万。擐甲(武装した)者二万余人。囲まれて久しく、人の多くは身体が腫れ咳き込み、死者は十中八九」と。(同、太清三年)

原文を参照してみます。

(原文)初,閉城之日,男女十餘萬,擐甲者二萬餘人;被圍既久,人多身腫氣急,死者什八九,乘城者不滿四千人,率皆羸喘。横屍滿路,不可瘞埋,爛汁滿溝,而眾心猶望外援。
(訳文)最初に城門を閉ざした当日は、男女が十万人あまり、武装兵が二万人あまりいた。包囲を受けてから長い日にちが経過すると、人々の多くが身体を腫らしたり気性を荒くしたりして、死ぬものが十中の八・九にものぼり、城壁を守るものは四千人にも満たず、みな呼吸も弱々しかった。路上には横たわる死体が満ちあふれ、埋葬することもできず、腐敗した体液が側溝に満ちあふれた。それでも人々の気持ちは外からの援軍を待ち望んでいたのである。

あー、うーん……、と。これも「大虐殺」と関係ないですよね。

籠城が長引いたため、城内の人々が疲労のあまり死亡したという記事です。虐殺どころか、侯景のコの字もでてきません。侯景は包囲軍であって、城外にいるんだから当たり前です。まあ、もちろん、侯景が反乱を起こさなければ死なずにすんだ人が死んだという言い方はできるでしょうけどね、虐殺でないものを虐殺だと言うのは不誠実ではないでしょうか。

最後に第三点、

「景の乱より、道路は断絶し、数ヶ月の間、人は相食うに至る。猶餓死を免れたもの十中一二」と。同、太清三年)

原文ではこうなってます。

(原文)自景作亂,道路斷絕,數月之間,人至相食,猶不免餓死,存者百無一二。
(訳文)侯景が反乱を起こして以来、道路は断絶し、数ヶ月のあいだで人々が互いを食らいあうようになり、それでも餓死を免れず、生きのこったものは百人のうちに一・二人もなかった。

おそらく参考にしたテキストの違いでしょうか、最後の部分に食いちがいが見られますが、まあおおむね引用に問題はないかと思います。

それよりも、むしろ、案の定というか、やっぱりねというか、これも侯景の「大虐殺」の論拠にはなってません。籠城戦の影響により餓死者が多かったという記録ですが、侯景が直接的に殺したという記録ではありません。虐殺でないものを虐殺だと言うのは不誠実ではないでしょうか。

こんなことがあってよいものでしょうか。虐殺の論拠として持ちだしてきたものが、すべて虐殺とは無関係な記録ばかりだとは……。侯景の「南京大虐殺」だと喧伝しつつ、この程度の論拠しか出せないなんて恥ずかしくないんでしょうか。自分で出した論拠が自説の誤りを論証しちまってるんですが……。

わたしが侯景の虐殺を挙げるとすれば、まず、こちらを挙げますね。

(原文)於是景營於闕前,分其兵二千人攻東府;南浦侯推拒之,三日,不克。景自往攻之,矢石雨下,宣城王防閤許伯眾潛引景眾登城。辛酉,克之;殺南浦侯推及城中戰士三千人,載其屍聚於杜姥宅,遙語城中人曰:「若不早降,正當如此!」
(訳文)そこで侯景は宮殿の前に陣をしき、配下二千人を分遣して東府を攻撃させた。南浦侯の推がそれを防いだため、三日が経過しても勝つことはできなかった。侯景はみずから出馬して攻撃をかけたが、矢玉が雨のように降りそそいだ。宣城王の防閤(官名)である許伯の部隊が、ひそかに侯景の部隊を引きいれて城壁に登らせた。辛酉、これを陥落させ、南浦侯の推、それに城内の兵士三千人を殺した。その死体は社姥宅(地名)に積みかさね、城内の人々に「さっさと降参しなければこの通りだぞ!」と呼びかけた。

南京ではなく東府城の事件ですが、『梁書』によると、これは戦闘行為による殺傷ではなく、陥落後、文武の官僚を駆りだして処刑したということらしく、これは異論もなく侯景の悪事として数えられるでしょう。

ところで、上記のブログでは、中国の食人風習が南京事件の捏造にかかわっているとし、その「詳述」として侯景の「南京大虐殺」を提示しているのですが、けっきょく、どのようにかかわりがあるのか、まったく明らかにされないままこのエントリは途切れてしまっています。いったい、なにを言いたかったのでしょうか?(つーか単なるracismなんだけどな)