侯景の南京虐殺? その3

その1その2と侯景について検討してみましたが、今回は王敦について。
deliciousicecoffeeさんのブログより引用します。

4世紀 東晋の王敦が南京に首都建業する際に大虐殺

まず、これを書いた人は「建業」というのが都市名であることが分からず、動詞のように使ってます。そもそも王敦は皇帝ではないので首都を建設することはできません。建業というのは地名です。現在の南京市のやや西よりに当たります。

『晋書』から王敦伝を調べてみました。王敦は反乱を起こして石頭城を攻め落としています。

『晋書』王敦伝
(原文)敦至石頭,(略)諸將與敦戰,王師敗績.既入石頭,擁兵不朝,放肆兵士劫掠内外.官省奔散,惟有侍中二人侍帝.
(訳文)王敦が石頭まで侵出してきた。諸将は王敦と戦ったが官軍のほうが負けてしまった。(王敦は)石頭に入城を果たしたあとも軍隊を抱えたまま参内せず、兵士たちを放って城の内外で略奪を働かせた。官僚たちは逃げ散ってしまい、皇帝のお側に控えるのはただ二人の侍中(官名)だけであった。

石頭城は、南京の城壁の一郭なので、ここを落として城内に侵入し、そこで虐殺行為があれば「王敦の南京大虐殺」が成立します。しかし、『晋書』を読むかぎりでは、略奪は見られるものの「大虐殺」の記述は見られません。

その後、王敦は周札を憎んでいたので、かれの一族を皆殺しにしました。

『晋書』王敦伝
(原文)敦又忌周札,殺之而盡滅其族.常從督冉曾、公乘雄等為元帝腹心,敦又害之.
(訳文)さらに王敦は、周札を憎んでいたので殺し、かれの一族を皆殺しにした。常従督(官名)の冉曾と公乗雄は元帝の腹心であるから、王敦はさらに彼らも殺した。

王敦、悪いヤツです。このほか周顗、戴淵という人も殺されてます。しかし、ここで殺されたのは政敵とその一族だけです。その他の城内の無関係な人々が殺されたという記述は見つかりませんでした。ましてや、数万人規模の殺害となると、周札の一件を勘定に入れても届かないでしょう。

『晋書』元帝紀、明帝紀のほうを見ても、それらしい記述はないっスねえ。『資治通鑑』322年にもないスよ。

どうも、こういう主張をしてるのは黄文雄さんだけっぽい。

【世のため人のため】(黄氏による『プロパガンダ戦「南京事件」』の序文の引用として)
国史から見た「南京大虐殺」は、実に凄まじいもので、東晋時代の王敦によるもの以来、南京大虐殺は王朝交代や内訌、内乱のたびに発生し、多くの城民が殺されてきた。

【真中行造のページ】(平成16年8月号『諸君』の引用として)
中国では長年にわたり、王朝が変わるたびに、北京、西安開封、揚州と大虐殺を繰返してきました。南京では、東晋の時代に王敦という武将が行っている。

【2ちゃんねる】(『日本を呪縛する「反日歴史認識の大嘘』の引用として)
私は、南京大虐殺については、中国有史以来、京師が落城するたびに必ず起こる「屠城」 をモデルとした「想像上の事件」と考えている。京師の南京城は、東晋以来、王敦、蘇峻の乱をはじめ、侯景の南京大虐殺から近代の曾国センの天京(南京)大虐殺、民国初年の張勲による南京大虐殺など、たびたび大屠城に見舞われている。

黄文雄さんがどのような史書のどの部分を参考にしたかは分かりません(前者については二十五史だと言ってるけど……後述)。論拠が書かれてないので。

ところで、上記ブログでの引用で黄文雄さんは、

梁の時代の候景による南京大虐殺は史上最多の死者を出し、日本軍の「百万虐殺」説は、これのコピーではないかとも思われる。

と言っておられる。侯景が南京で100万人を殺したというわけですが、『梁書』『南史』『資治通鑑』にその主張を裏付ける記述がないことは、すでに述べたとおりです。どこをどう読めば「百万虐殺」になるのか、さっぱり分かりません。

もちろん大虐殺は、南京だけにとどまらず、長安、洛陽、開封、北京、揚州といった都市でも、歴代王朝の交替、変動のたびに行われていることは、『史記』をはじめとする「二十五史」など、この国の正史がはっきりと記録するところだ。

二十五史は、清朝が定めた歴代王朝の歴史書24種に『清史稿』を加えたものですが、『晋書』や『梁書』や『南史』もその二十五史に含まれてます(『資治通鑑』はそれらの史書から記事を年代順に配列して一つに編纂したもの)。そして、『晋書』や『梁書』や『南史』には大虐殺の記録は見あたらない。黄文雄さんは王敦や侯景の「南京大虐殺」は二十五史に明記されていると主張し、わたしは「南京大虐殺」と呼べるようなものは二十五史に見られないと主張しています。どちらかがウソを吐いてますね。