侯景の南京虐殺? その4

侯景その1その2王敦につづき、隋の煬帝の「南京大虐殺」について。
煬帝が「南京大虐殺」を行ったかどうか検証するにあたっては、王敦や侯景と違って、ちょっと難しい問題があります。王敦らは逆臣であるのでその悪事は包みかくさず史書に書かれるであろうから、本人の伝記か、ときの皇帝側の記録を参照すればだいたいのことが分かりました。しかし煬帝は以後の歴代王朝も正統性を認めている皇帝なので、逆臣らとは同じように書かれてないのではないか、という心配があります。書いてあったとしても、歴史書のあちこちに分けられているかもしれません。

なので、今回は見落としがある可能性が高いです。

まずは、はてなキーワード南京大虐殺」よりテンプレを引用。

【はてなダイアリー】南京大虐殺とは
589年 隋、陳の南京(建康)を陥落、徹底的破壊。大虐殺。

まず、滅ぼされたほうの陳の記録を見てみますね。

『陳書』後主紀
(原文)是月,隋遣晉王廣衆軍來伐.(略)後主聞兵至,從宮人十餘出後堂景陽殿,將自投于井,袁憲侍側,苦諫不從,後閤舍人夏侯公韻又以身蔽井,後主與爭久之,方得入焉.及夜,為隋軍所執.景戌,晉王廣入據京城
(訳文)同月、隋は晋王の楊広(のちの煬帝)に軍隊を率いさせて攻めこんできた。後主(陳の皇帝・陳叔宝)は敵軍が襲来したと聞いて、宮女十人あまりをつれて後堂の景陽殿へ出てゆき、井戸に身投げしようとした。お側にはべっていた袁憲が反対して飽くまで許さず、後閤舎人の夏侯公韻がその身をもって井戸をふさいだ。後主はしばらく彼らと争っていたが、ようやくその中に入ることができた。夜中、隋軍に捕らえられた。丙戌、晋王の楊広が京城に入城した。

前後に戦闘の記録はありますが、とくに虐殺の様子は記されてないです。

つぎに、期待薄ですが隋の煬帝の記録を見てみます。

『隋書』煬帝
(原文)八年冬,大舉伐陳,以上為行軍元帥.及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析、尚書都令史曁慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三吳.於是封府庫,資財無所取,天下稱賢.
(訳文)八年冬、大挙して陳を討伐し、上(煬帝)は行軍元帥となった。陳が平定されると、陳の湘州刺史の施文慶、散騎常侍の沈客卿、市令の陽慧朗、刑法監の徐析、尚書都令史の曁慧らを逮捕し、その邪悪さによって民衆が危害を受けたということで、右手の門前で斬首し、三呉への陳謝にかえた。そして府庫を封印して、資財を一切押収しなかったので、天下の人々は賢者であると称賛した。

虐殺に手を染めるどころか、賢者だと称賛されてます。当人の帝紀なのでウラがあるのかもしれませんが、煬帝が横暴な君主になったのは皇帝になってからとされているので、この時期に非行を見つけるのは難しいんじゃないかと思います。施文慶らは陳王朝の重臣でありながら、三呉(陳の領土)の民衆を苦しめていた悪人だったので、見せしめとして煬帝に処刑されました。これも「虐殺」に入れちゃう?入れてもあんまり足しにならないと思いますけどね。

煬帝の陳征圧には、賀若弼、韓擒虎、楊素、高熲といった武将たちが参加していました。彼らの伝記になにか書かれているかもしれません。

『隋書』賀若弼伝
(原文)開皇九年,大舉伐陳,以弼為行軍總管.(略)弼以大軍濟江,陳人弗之覺也.襲陳南徐州,拔之,執其刺史黃恪.軍令嚴肅,秋毫不犯,有軍士於民間沽酒者,弼立斬之.進屯蔣山之白土岡,陳將魯達、周智安、任蠻奴、田瑞、樊毅、孔範、蕭摩訶等以勁兵拒戰.田瑞先犯弼軍,弼擊走之.魯達等相繼遞進,弼軍屢却.弼揣知其驕,士卒且惰,於是督厲將士,殊死戰,遂大破之.麾下開府員明擒摩訶至,弼命左右牽斬之.摩訶顏色自若,弼釋而禮之.從北掖門而入.時韓擒已執陳叔寶.弼至,呼叔寶視之.叔寶惶懼流汗,股慄再拜.弼謂之曰:「小國之君,當大國卿,拜,禮也.入朝不失作歸命侯,無勞恐懼.」
(訳文)開皇九年、大挙して陳を討伐し、賀若弼は行軍總管となった。賀若弼が大軍を率いて長江を渡ったとき、陳の人々でそれに気付いたものはなかった。陳の南徐州を攻撃して陥落させ、その刺史の黄恪を捕らえた。軍令は厳粛であり、違反するものは一切なかった。兵士のなかに民間で酒を買うものがあったので、賀若弼はそのものを即座に処刑した。進軍して蔣山の白土岡に駐屯すると、陳の武将の魯達、周智安、任蛮奴、田瑞、樊毅、孔範、蕭摩訶らが軍隊を率いて防戦し、田瑞が先鋒として賀若弼軍に槍をつけたが、賀若弼は彼らを敗走させた。魯達らが連続して進軍してきたので、賀若弼の軍隊はたびたび後ずさりした。賀若弼は彼らの油断と士卒たちの怠慢を察知すると、将兵を激励して決死の覚悟で戦わせ、ついに彼らを大破した。配下である開府の員明が蕭摩訶を捕らえてきたので、賀若弼は側近に斬首を命じたが、蕭摩訶が泰然自若として顔色を変えないのをみて、賀若弼はかれを釈放して礼遇した。北の宮門から入城した。このとき韓擒虎はすでに陳叔宝を逮捕していたので、賀若弼が到着すると陳叔宝を呼んで、かれに引きあわせた。陳叔宝が恐怖のあまり汗を流し、足を震わせながら挨拶を二回すると、賀若弼はこう言った。「小国の君主は大国の大臣に相当します。参内すれば帰命侯になれないことはありません。恐れることはありませんよ。」

こちらも虐殺の様子は書かれてないですね。むしろ「軍令厳粛」とさえあります。

『隋書』韓擒虎伝
(原文)於是拜為廬州總管,委以平陳之任,甚為敵人所憚.及大舉伐陳,以擒為先鋒.擒率五百人宵濟,襲採石,守者皆醉,擒遂取之.進攻姑熟,半日而拔,次於新林.江南父老素聞其威信,來謁軍門,晝夜不絕.陳人大駭,其將樊巡、魯世真、田瑞等相繼降之.晉王廣上狀,高祖聞而大悅,宴賜羣臣.晉王遣行軍總管杜彥與擒合軍,步騎二萬.陳叔寶遣領軍蔡徵守朱雀航,聞擒將至,衆懼而潰.任蠻奴為賀若弼所敗,棄軍降於擒,擒以精騎五百,直入朱雀門.陳人欲戰,蠻奴撝之曰:「老夫尚降,諸君何事!」衆皆散走.遂平金陵,執陳主叔寶.(略)有司劾擒放縱士卒,淫污陳宮,坐此不加爵邑.
(訳文)こうして廬州總管に任命され、陳平定の任務を委ねられたので、敵国の人々にたいへん恐れられた。大挙して陳を討伐したおりには、韓擒虎が先鋒となった。夕方、韓擒虎が五百人を率いて川を渡り、採石を襲撃すると、守備兵たちはみな酔っていたので、韓擒虎はこれを攻略することができた。姑熟に進撃して半日で陥落させ、新林に進駐した。長江南岸の老人たちは韓擒虎の威信を噂に聞いていたので、軍門に挨拶してくるものが朝夕に絶えなかった。陳の人々は大いに驚き、その武将樊巡、魯世真、田瑞らは次々に降服した。晋王の楊広が報告書を上げると、高祖(煬帝の父文帝)は大満悦で、酒宴の席で臣下たちに(祝いの品を)下賜した。晋王は行軍總管の杜彦を派遣して韓擒虎軍に合流させ、歩騎二万人とした。陳叔宝は領軍の蔡徵に朱雀航を守らせたが、韓擒虎が到来したと聞くと、兵士たちは恐怖のあまり壊滅した。任蛮奴は賀若弼に敗れたため、軍隊を捨てて韓擒虎に降参した。韓擒虎は精鋭五百騎を率いて朱雀門に突入した。陳の人々が応戦しようとしたとき、任蛮奴が「おれでさえ降参したというのに、諸君はなにをするつもりか!」と言ったので、人々はみな逃げさった。とうとう金陵は平定され、陳の君主・陳叔宝を逮捕した。担当者が、韓擒虎が兵士を放って陳の宮殿を荒らした、と告発したため、(韓擒虎は)その失敗のため爵位を与えられなかった。

配下の兵士が宮殿を荒らしたと書かれてますが、無辜の民衆を殺戮したというような話はないですね。

『隋書』楊素伝
(原文)及大舉伐陳,以素為行軍元帥,引舟師趣三硤.(略)素親率黃龍數千艘,銜枚而下,遣開府王長襲引步卒從南岸擊欣別柵,令大將軍劉仁恩率甲騎趣白沙北岸,遲明而至,擊之,欣敗走.悉虜其衆,勞而遣之,秋毫不犯,陳人大悅.素下至漢口,與秦孝王會.及還,拜荊州總管.
(訳文)大挙して陳を討伐したとき、楊素は行軍元帥となり、水軍を率いて三硤;に向かった。楊素はみずから黄龍(戦艦の名)数千艘を率いて、枚をふくんで川を下った。開府の王長襲に歩兵を率いさせ、南岸から戚欣(敵将の名)の側面の防壁を攻撃させた。大将軍の劉仁恩には装甲騎兵を率いさせ、白沙の北岸に向かわせ、夜明けを待ってから攻撃させた。戚欣が敗走すると、その軍隊をすべて捕虜としたが、ねぎらって釈放し、危害は一切加えなかったので、陳の人々は大喜びした。楊素は漢口まで川を下ると、秦孝王(煬帝の弟・楊俊)と合流した。凱旋して荊州總管に任命された。

捕虜に危害を加えなかったので敵国に喜ばれてます。『資治通鑑』では「所俘獲六千餘人,弼皆釋之,給糧勞遣,付以敕書,令分道宣諭。於是所至風靡。(六千人あまりを捕虜としたが、賀若弼はすべて釈放し、食料を与えてねぎらってやり、命令書を持たせて手分けして降服勧告させたので、各地は風になびくように降服した。)」とされてます。

『隋書』高熲伝
(原文)上嘗問熲取陳之策,熲曰:「江北地寒,田收差晚,江南土熱,水田早熟.量彼收穫之際,微徵士馬,聲言掩襲.彼必屯兵禦守,足得廢其農時.彼既聚兵,我便解甲,再三若此,賊以為常.後更集兵,彼必不信,猶豫之頃,我乃濟師,登陸而戰,兵氣益倍.又江南土薄,舍多竹茅,所有儲積,皆非地窖.密遣行人,因風縱火,待彼修立,復更燒之.不出數年,自可財力俱盡.」上行其策,由是陳人益敝.九年,晉王廣大舉伐陳,以熲為元帥長史,三軍諮稟.皆取斷於熲.及陳平,晉王欲納陳主寵姬張麗華.熲曰:「武王滅殷,戮妲己.今平陳國,不宜取麗華.」乃命斬之,王甚不悅.
(訳文)上が陳の攻略策を高熲に尋ねたとき、高熲は言った。「長江北岸は寒冷であるため収穫が遅く、長江南岸は温暖であるため収穫が早くなります。彼らの収穫期をうかがって兵馬を動員し、攻撃するぞと宣伝すれば、彼らはかならずや兵隊を集めて守りを固め、収穫する時間を失うでありましょう。彼らが兵隊を集めたら、こちらは武装を解きます。これを再三くりかえすうちに、敵国はそれが普通のことだと思い、それ以後は(我々が)兵隊を集めても彼らは信用しなくなるはずです。しばらくして我らが軍隊を送りこみ、上陸して戦えば士気は倍増します。しかも長江南岸は土地がなだらかで、建物は竹や茅で作られており、食料は地下に蓄えられておりません。ひそかに間者を派遣して放火させ、彼らが修理を終えるのを待ってから、ふたたび放火するのです。何年もしないうちに財力は底をつくでしょう。」上がその策略を採用すると、陳の人々はますます疲弊した。九年、晋王の楊広が大挙して陳を討伐したとき、高熲を元帥長史とした。軍議では、すべて高熲の意見が採用された。陳が平定されると、晋王は、陳の君主の寵姫である張麗華を手に入れようとした。高熲が「武王は殷を滅ぼしたとき妲己を処刑しました。いま陳を平定いたしましたが、張麗華を入手すべきではありません」と言って、(張麗華の)斬首を命じたので、晋王はたいそう不満であった。

虐殺らしき様相は見られないですね。しいていえば張麗華を殺したことくらいでしょうか。

…うーん。陳の後主、隋の煬帝という二君主の伝記、煬帝を支援した四武将の伝記のどれを見ても、「南京大虐殺」に相当しそうな記述は見あたりませんでした。さらに『資治通鑑』をざっと眺めてみましたが、やはりこちらにも記載なし。ほんとに「南京大虐殺」なんて書いてあるんでしょうか?