前提ロンダリング

あとで書くとは言ったものの一段落ついたら書く気も失せるね。なので、手短にすませる。

まずこの記事から。

南京事件にかかわる史料は多くが失われていて、その全貌をつかむことはすでにできない。しかし残された史料だけでも日本軍がいかなる行動をしていたのか分かっている部分も大きい。知りえないところと知りうるところがあり、知りうるところではかなりのことが分かっている。

なにか絵の描かれたキャンバスのところどころに大きな穴が開いてしまっていて、そこがもともとどのような色で塗られていたかは知りえない。けれども残された部分には赤だの白だの緑色だの黄色だので塗られた文様があるわけで、そこだけでも何が描かれているかは明らかだし、あるいはその描線を延長することでもって穴の開いた部分になにが描かれていたか推測するという手もある。

で、さきの記事に戻ると、そこにはこう書いている。

けっこう驚いた。個人的にはもはや、「事実である」ということと、 その解釈が広く受け入れられているということとは、全く別ものだと考えてたから。
「事実である」ことに何かの力を感じている人と、 事実に対する解釈は、市場により決定されると考える人とがいて、 両者はたぶん、議論が成立しない。お互い争っても、議論のレイヤが全く違うから、 話が噛み合わない。

まったく、そのとおり。だから、わたしも事実認識と、それを語ることにより生ずる政治性、歴史修正主義者の欺瞞に対する社会の受容、これらのレイヤーの違いを認識しておくべきだと言っている。なので、ここでは細かい言いまわしは別としても、とくに異論はない。

しかし、問題はここからだ。かれはホエールウォッチングをたとえに挙げる。

ホエールウォッチングをするために、何人もの人達が船に乗って、海面を見ながらクジラを待つ。 観客の一人がトイレに行こうと海に背中を向けた瞬間、巨大なクジラが見事なジャンプを見せて、 何故だかピンポイントで、その人をずぶ濡れにしてしまう。

ずぶ濡れになってしまった人にはなぜ自分がそういう目にあったのか真実が分からないと言っているのだが、このたとえ話には、その人が「海に背中を向けていた」という前提がある。この人にとって、海水をぶっかけたのはクジラであるという事実は、周りの人々の言葉から解釈されるものであって、眼前の事実ではない。さきのキャンバスのたとえでいうと、ちょうど穴の開いた部分にあたり、そこに何が描かれていたか分からないということと同じなのだが、一方キャンバスには残された部分もある。ホエールウォッチングのたとえでは、その残りの部分をなかったこととして話を進めているが、なにも「たとえ話をするな」とか「前提条件を付けるな」と言いたいわけではない。これは議論を分かりやすくするためのたとえ話なのだし、たとえ話をしている当人が「海に背中を向けた」とか「クジラが海に潜ってしまった状態」とか前提条件をはっきり明記したうえで、その前提条件に当てはまらない場合については留保をしているのだから、それだけならばとくに問題はない。

よって、「真実は市場が決める」と題されたセクション以降は、「海に背を向けていた」「クジラが海に潜ってしまった状態」「キャンバスの穴の開いた部分」といった前提のもとに言っているのであって、その前提を共有しないことがらについては、まったく関係のない議論である。そのような前提があれば、なるほど「真実は市場が決める」と言えるのかもしれない。*1前提が違っていれば「真実は市場が決める」と結論することはできないし、かれもそこまでは言っていないはずだ。

ところが、かの人は、みずから設定した前提条件を忘れてしまい、はてには「もはや科学的な検証とか、客観的な証拠といったものの 価値は無くなってしまう」だとか「それを覆すために『科学的な検証』に走るのは やっぱり戦略として間違え」だとか言いはじめる。

さっきまでは、当人が「海に背を向けていた」ケースについて話をしていたのに、いつのまにか、当人もがクジラを見ていたケースまで引っくるめて、つまりキャンバスの残された部分まで、検証は無意味だという結論を打ちだしてしまった。前提条件のすり替えが行われているのだ。もし、あのたとえ話がなければ、だれもが前提条件の違いに気づいただろう。しかしホエールウォッチングのたとえ話がはさまれたことにより、読者はそのすり替えに気づくことができなくなってしまった。これは「前提ロンダリング」と言えるかもしれない。

さらに冒頭部分ではその結論をさきどりし、「誰かが『決議や謝罪要求の有無に関係なく、歴史的事実は存在する』とコメントしていた。 けっこう驚いた」とまで言っている。ここでも前提条件を抜きに、科学的な検証は無価値だとしている。

これを故意とすれば、かなり悪質である。しかし当人が「twitter のまとめ。当たり障りのある部分削除したら半分以下になった」と言ってるので、おそらく要約の過程で前提部分をうっかり削ってしまったのであって、故意ではないのだろう。けれども、そうであるのと同じくらいに、悪影響を周囲に及ぼしてしまっている。実際、このエントリに付されたブックマークやリファラを見れば、かれの主張が、だれを喜ばせているかは明らかだろう。

*1:「市場」という言葉が未定義なのだが、そこはわたしの論点ではないのでスルーする。