姜維が廖立に会ったのは

姜維廖立に会ったのはこのときなんじゃないかなぁという気がする。つぎに汶山に入ったのは諸葛亮の死後で、姜維はすでに衛将軍・録尚書事になっている。廖立に会ったのがそのころだとすると、ちょっと不自然な感じがある。

姜維は費禕についでナンバー2の地位にのぼった。このとき廖立が批判した相手ももうほとんど姿を消している。もし姜維廖立を評価したならば、復帰させることもできたはず。なのに、姜維は何もしていない。諸葛亮が生きていたから、そのつもりがあってもできなかったのではないか。

廖立伝では「監軍の姜維」と言っている。なぜ衛将軍と書かれていないのか。姜維伝には諸葛亮の時代に中監軍・征西将軍になったとある。そうすると、やはり諸葛亮の時代ということになる。ただし、諸葛亮李厳を弾劾した上奏文では、姜維を行護軍・征南将軍(征西将軍の誤り)としている。『華陽国志』によると姜維は建興八年(二三〇)春に護軍・征西将軍になったとある。護軍だったのか監軍だったのか、史料によってまちまちになっている。中監軍から下位の右監軍に異動するのはおかしいから、姜維伝や廖立伝の「(中)監軍」は「護軍」の間違いだと思う。『華陽国志』のほうが弾劾文と一致しており筋が通っている。