光武帝紀21 「宗室を封じて皇后を立つ」
三月乙酉*1、天下に大赦令を下した。詔勅にいう。「酷吏*2が悪人を殺すときは刑罰を厳しく用いている。牢屋には冤罪の者*3も多いのだ。朕はいたく哀れに思う。孔子*4も言っているではないか。『刑罰が適正でなければ民衆は手足の置きどころもない』と。そこで中二千石*5や大夫*6たちとともに刑罰の軽減について議論しよう。」
更始帝*7が敗北したとき、劉永*8は軍隊を率いて土地を攻略し、北は黄河*9、南は陳・汝*10まで広め、周建*11を将軍、蘇茂*12を大司馬*13とし、使者をやって張歩*14を斉王*15、董憲*16を海西王*17に任命した。
夏四月、蓋延*18・王霸*19らが劉永を攻撃すると、劉永は城にこもって出てこなかった。昼間に麦を刈りとり、夜中に城へ襲いかかると、劉永はたいそう驚いて軍隊を連れて逃走した。蓋延が待ちかまえていてこれを大破した。劉永は配下の軍隊を捨てさり、軽装のまま馬にまたがり、母と妻を連れて虞*20へ脱走した。虞の人々が裏切って母と妻を殺したので、劉永は部下数十人を連れて譙*21へと逃れた。
蘇茂・周建は三万人を率いて沛*22の西で蓋延を攻撃したが、蓋延の反撃を受けて大敗した。蘇茂は広楽*23に立てこもり、劉永は湖陵*24に立てこもった。劉秀が太中大夫*25戴兢*26を兗州*27への使者とすると、東昏*28の人々が戴兢を捕まえて劉永に差しだした。戴兢は「お前なんか国家*29に敵うものか。いまに死んじまうだろうよ!」と劉永を罵倒した。腹を立てた劉永は戴兢を殺した。
甲午*30、叔父の劉良*31を広陽王*32に、兄の子劉章*33を太原王*34に、劉章の弟劉興*35を魯王*36、故*37の定陶王*38劉祉*39を城陽王*40、外祖母*41の黄*42氏を湖陽君*43に取りたてた。
劉良はむかし蕭*44令*45であったが、法律に引っかかって罷免された。劉秀と劉縯*46は幼少のころ父を亡くしたが、劉良がよく可愛がったのである。漢軍が決起するとき、劉秀が劉良に報告すると、劉良は激怒して許さなかった。しばらくしてやむを得なかった*47。劉良は更始帝に随行して関中*48に入り、かなりの尊敬と寵愛を受けた。更始帝が敗北したので、劉良は劉秀に身を寄せていた。
劉章・劉興はどちらも劉縯の息子である。すでに国王に取りたてられていたが、彼らは若くして高貴な身分になったが、役人の仕事で名声を立てさせたいものだと劉秀は考え、劉章には平陰*49令、劉興には緱氏*50令を兼任させた。しばらくして劉章は梁郡*51太守*52、劉興は弘農*53太守に昇進した。劉興は賢者を求めて善行を好み、郡内はすっかり和らいだ。朝廷で議論が紛糾したときは、かならず使者を飛ばして劉興に質問した。
劉祉は字*54を巨伯*55といい、劉秀の族兄*56である。謙虚な人柄であったので一族みんなから尊敬された。更始帝が敗北したとき、劉祉は密かに劉秀のもとへ行った。一族の中では劉祉がまっ先にやってきたので、劉秀はいたく喜び、車や服などの贈り物はたいそう手厚かった。
宛王*57の劉賜が更始帝の三人の息子をつれて宮殿に出頭し、みな諸侯に取りたてられた。故の元氏王*58である劉歙*59を泗水王*60、劉歙の息子劉終*61を淄川王*62、故の宛王劉賜を慎侯*63、劉順*64を成武侯*65、周*66王朝の末裔である姫当*67を周の承休公*68、李通*69を固始侯*70に取りたてた。
劉歙は字を経世*71といい、劉秀の族父*72である。劉歙の従兄劉稷*73は劉縯に対する功績があった。劉歙の息子劉終は幼いころから劉秀と仲が良く、漢軍が新野*74で勝利できたのも劉終のおかげであった。劉秀は言った。「劉歙の親子をともに国王に取りたてたのは、名誉を与えて恩返しをしたかったからなのだ。」
劉賜は字を子琴*75、劉順は字を平仲*76といい、どちらも劉秀の族兄である。更始帝が敗北したとき、劉賜はみずから武関*77へ赴き、更始帝の妻子を迎えいれて洛陽*78に連れていった。劉賜は臣下の道を弁えているとして、劉秀はいつも讃美していた。劉順は劉秀と同郷であり、若いころからたいへん仲が良かった。更始帝が死んだとき、劉順は東方へ行って劉秀に身を寄せた。劉順は日ごろから温厚実直で、更始帝に仕えていたときも節義を損なうことがなかったので、もっとも尊重された。
むかし更始帝は、宛王劉賜・鄧王*79王常*80・西平王*81李通らを領国へ下向させ、南方を鎮撫しようとした。李通は劉秀の妹を妻としたが、それが寧平公主*82なのである。劉秀は即位すると李通を徴しよせて光禄勲*83とした。劉秀は四方へ遠征に出かけるたび、いつも李通を残して京師*84を守らせ、百姓の慰撫や宮殿の管理を任せた。
六月戊戌、郭*85氏を皇后に立て、皇子劉彊*86を皇太子とし、天下に大赦令を下し、卿*87・謁者*88の俸禄をそれぞれ一つ格上げした。
郭氏は真定*89の人である。父の郭昌*90は孝行と謙虚さがあり、真定恭王*91が娘を郭昌に嫁がせた。郭昌は若くして亡くなり、その妻は「郭主」*92と呼ばれるようになった。郭主は礼儀と倹約を好み、王女なりの資産を持っていたが、いつも手仕事をしていた。娘は郭聖通*93、息子は郭況*94といった。劉秀は信都*95から帰ってきたとき、郭聖通を嫁にとって大切にし、皇子劉彊を生んだ。郭況は城門校尉*96・綿蔓侯*97に取りたてた。(郭況は)皇后の弟となり賓客たちが押しよせたが、細心かつ慎重、謙虚さはますます強まった。郭昌には安陽思侯*98を追贈した。劉秀はたびたび郭況の邸宅を訪れて、たいへん手厚い贈り物をした。京師では郭況の邸宅のことを「金穴」*99と呼んだ。
*1:いつゆう。きのととり。
*2:こくり。厳罰主義の役人。
*4:こうし。
*5:ちゅうにせんせき。高級官僚。
*6:たいふ。高級官僚。
*7:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。
*8:りゅうえい。群雄の一人。
*9:こうが。河川名。
*10:ちん・じょ。陳国と汝南郡。
*11:しゅうけん。
*12:そぼう。
*13:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。
*14:ちょうほ。群雄の一人。
*15:せいおう。斉を領地とする国王。
*16:とうけん。群雄の一人。原文では「董宮」とあるが『後漢書』により改める。
*17:かいせいおう。海西を領地とする国王。原文では「西海」とあるが『後漢書』により改める。
*18:がいえん。
*19:おうは。
*20:ぐ。県名。
*21:しょう。県名。
*22:はい。県名。
*23:こうらく。城名。
*24:こりょう。県名。
*25:たいちゅうたいふ。官名。
*26:たいきょう。
*27:えんしゅう。州名。
*28:とうこん。県名。
*29:こっか。皇帝の意。
*30:こうご。きのえうま。
*31:りゅうりょう。
*32:こうようおう。広陽を領地とする国王。
*33:りゅうしょう。
*34:たいげんおう。太原を領地とする国王。
*35:りゅうこう。
*36:ろおう。魯を領地とする国王。
*37:もと。
*38:ていとうおう。定陶を領地とする国王。
*39:りゅうし。
*41:がいそぼ。母方の祖母。
*42:こう。劉秀の姉の劉黄と混同されているようである。
*43:こようくん。湖陽を領地とする女性諸侯。
*44:しょう。県名。
*45:れい。官名。県の長官。
*46:りゅうえん。字(あざな)は伯升(はくしょう)。劉秀の兄。原文では「伯升」と呼び、実名を書かない。
*47:原文は文章の一部が欠けている。『後漢書』では「やむを得ず従軍して…」と続ける。
*48:かんちゅう。函谷関の内側、長安(ちょうあん)の一帯。
*49:へいいん。県名。
*50:こうし。県名。
*51:りょうぐん。郡名。
*52:たいしゅ。官名。郡の長官。
*53:こうのう。
*54:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。
*55:きょはく。
*56:いとこ。
*57:えんおう。宛を領地とする国王。
*58:げんしおう。元氏を領地とする国王。
*59:りゅうきゅう。
*60:しすいおう。泗水を領地とする国王。
*61:りゅうしゅう。
*62:しせんおう。淄川を領地とする国王。
*63:しんこう。慎を領地とする諸侯。
*64:りゅうじゅん。
*65:せいぶこう。成武を領地とする諸侯。
*66:しゅう。王朝名。
*68:しょうきゅうこう。「承休」を称号とする諸侯。承休は「めでたさを受け継ぐ」の意。
*69:りとう。
*70:こしこう。固始を領地とする諸侯。
*72:おじ。
*73:りゅうしょく。劉縯とともに討たれた。
*75:しきん。
*76:へいちゅう。
*77:ぶかん。関所の名。
*78:らくよう。劉秀が都とした地。
*79:とうおう。鄧を領地とする国王。
*80:おうじょう。
*81:せいへいおう。西平を領地とする国王。
*82:ねいへいこうしゅ。寧平を領地とする皇女。
*83:こうろくくん。官名。九卿の一つ。宮殿閉門担当の大臣。
*84:みやこ。
*85:かく。
*86:りゅうきょう。
*87:けい。大臣。
*88:えっしゃ。高級官僚。
*89:しんてい。国名。
*90:かくしょう。
*91:しんていきょうおう。真定を領地とし「恭」を称号とする国王。姓名は劉普。
*92:かくしゅ。
*93:かくせいとう。
*94:かくきょう。
*95:しんと。郡名。
*96:じょうもんこうい。官名。城門守備司令官。
*97:めんまんこう。綿蔓を領地とする諸侯。「綿曼」と書くのが正しいようだ。
*98:あんようしこう。安陽を領地とし「思」を称号とする諸侯。
*99:きんけつ。金鉱の意だろう。