蜀はすでに涼州を落としていた

ちょっと思ったんだけど、涼州ってすでに蜀の手に落ちてたんじゃないかと。姜維がたびたび狄道あたりに進出して、しかも駐留期間がえらく長いわけです。これはとても後方からの輸送に頼っていたとは考えにくい。現地の氐人や羌人の供出を受けてたんじゃないかと思う。つまり、姜維は一時的に涼州に進出して現地民の食糧供出で食いつないでいたと見るよりも、すでに涼州は蜀の手中に落ちていて姜維はその管内を移動していたに過ぎず、現地民の供出は賦役租税を意味していた、と見方を変えた方が正しいのではないか。

馬超韓遂の動きを見ても分かるんだけど、現代日本人が考えるように、広い平原のところどころに城があって、城と城とをつなぐ街道があって、軍隊はその街道をつたって城から城へ移動し駐屯している、という見方はおそらく当時の漢人と大差ないと思うんだけど、でも馬超韓遂はそうではなく、道なき道をすすんで城でないところに留まったりしてるのよね。むしろ涼州の実情としては、こちらが近いんじゃないかと。国力が人口に比例するとしたら、城のなかに住む漢人よりも、山のなかに住む氐人や羌人のほうがずっと多くて、涼州のメインステージはこっちにあった、としたら、馬超韓遂がいくつ城を失っても戦いつづけられた理由も見えてくる。

姜維もそういう意味で涼州の本体を抑えていた可能性はないか。平原にうかぶ孤島のような城には少数の魏兵が詰めていたかもしれない。けれども、洋々たる平原を自由自在に往来するのが氐人や羌人であって、涼州の地は彼らだけの天地であったとすれば。そして、彼らが蜀に属して姜維を迎えていたとすれば、今までとは違った様相が見えないか…。