馬超の墓

馬超は「督臨沮」を務めたが、その臨沮はおそらく蜀の北境にあるのであって荊州の臨沮ではない、と、かねてより方々で言ってたんですが、その憶測を補強する記述が出てきました。

『古今図書集成』漢中府部
(原文)馬超墓。在縣東三里。漢建安五年,諸葛亮行軍沔陽,親詣墳所設祭,令其弟馬岱掛孝衣帛。今名馬塲。
(訳文)馬超の墓。県城の東三里にある。漢の建安五年、諸葛亮は沔陽に進駐したとき、じきじきに墳墓まで出かけて祭祀を行い、弟の馬岱に命じて孝衣(喪服)を掛けさせた。現在は「馬場」と呼ばれている。

「建安」は「建興」の誤り。漢中からは目と鼻の先に沮県があって、「臨沮」というのはこれと関係してるんじゃないかと思ってるので、おそらく馬超が死んだとき任地のすぐ近くなのでここに埋葬されたんじゃないかと考えてるわけです。まあ、もっとも故郷に近いということで(なおかつ軍本営のお膝元ということで)、荊州から遺体が帰された可能性もあるんですけどね。


とか言ってたら、安陸府のほうにも墓がありやがんの。

『古今図書集成』安陸府
(原文)馬超墓。相傳其墓有三。一在東門外聚奎井之旁,崇禎初,里人掘井得髑髏如斗大,疑即超首也。或云在泰山廟旁。又云在教場關外。
(訳文)馬超の墓。言い伝えによると彼の墓は三つあるという。一つは東門外の聚奎井の傍らにあり、崇禎年間のはじめ、土地の人が井戸を掘ったときに斗升ほどの大きさの頭蓋骨が出てきたが、おそらくこれが馬超の首なのであろう。あるいは泰山廟の傍らにあるとか、または教場関外にあるとも言われている。

でも蜀の馬超に結びつくような情報がなく、もしかして別人なのではとか思ったり。