韓浩をめぐる曹操と袁術の関係

韓浩は河内出身の義勇軍の隊長で、河内太守王匡の部下なのに、なぜか袁術の推挙を受けている。そして曹操配下の夏侯惇に所属。王匡は韓浩の元上司なのに影がうすくて、そのことをどう思ったのかまったく伝えられてない。

わたしが思うに、曹操袁術の故吏。だから曹操が単身逃亡したとき、それを家族に知らせたのが袁術だった。曹操は張邈のもとで挙兵し、張邈の客将として董卓と戦ってるけど、この張邈はのちに曹操と対立して袁術のもとへ逃げている。張邈も袁術と親しい関係にあったと思う。袁術軍の一翼を担ったのが張邈で、張邈の客将が曹操だったと。

王匡は董卓に敗れて故郷に帰り、兵士を集めて張邈のもとに戻ってきた。なぜ河内に戻らなかったのだろう。河内に戻る途中、張邈のもとに立ちよっただけかもしれない。たぶんこの王匡も袁術の息がかかってる。だから部下の韓浩が袁術に推挙された。これは上官の王匡を表彰するのと意味が同じ。

その王匡は曹操に殺され、河内には曹操が入った。これは曹操袁術配下からの離脱したことを意味するんじゃないかな。曹操は王匡を殺して袁術に対する叛意を表し、主のいなくなった河内に逃亡、その地に駐留した。河内周辺は袁術と対立する袁紹がすでに君臨してるので、曹操袁紹への寝返りの手みやげとして王匡を殺したと。王匡が殺された現場がいまいち分からないんだけど、張邈の下に入ろうとして、ということなので、おそらく酸棗でのできごとかな。なお韓浩は河内の地元役人なので、たんに新しい上官に従ったまで。

どういうわけか曹操は後任の河内太守にはなれなかったけど、かわりに東郡太守になった。もちろん袁紹が勝手に任命しただけで長安献帝は関知してないし、袁術の合意もない。その後、曹操が兗州牧に昇進すると、夏侯惇がその後任として東郡太守になり濮陽を守った。

つぎに韓浩の名が現れるのは、呂布の乱で濮陽の夏侯惇が捕らえられたときのこと。曹操陶謙を征討するため国許を空けていて、呂布はその隙をうかがって張邈とともに兗州を占拠した。陶謙呂布も張邈もみんな袁術の一派で、その一角である陶謙が窮地に陥ったため、袁術派の群雄が連動して袁紹派の曹操を襲撃したわけ。このころ、袁術の策謀は冴えていた。