魏延の長安襲撃策

魏延がどれだけ確信を持っていたのか分からないけど、たとえば2ちゃんねるなどでは魏延信者ですら成功の見込みの薄い、無謀な作戦だった、というようなことを言う人が多くてちょっと悲しいよね。


魏延が念頭に置いているのは劉邦の三秦攻略で、この戦いでは三秦の領民が、君主を捨てて劉邦軍に呼応したことから、劉邦軍はほぼ無傷で関中を落としている。ここで重要なのは三秦の領民が戦いの帰趨を決したということ。

三国時代の関中は、韓遂馬超といった地元軍閥や在地豪族が曹操夏侯淵らによって排撃され、魏の支配下にあったものの、その支配を恨むものが多かった。そして、このとき長安を守っていたのが夏侯淵の族子なのだから、関中の諸将はかならずしも心服していなかっただろうと思われる。ゆえに諸葛亮が祁山に進出したときも、安定・天水・南安の領民が呼応し、あまっさえ天水太守などは、その郡中の有力者に向かって「お前らは信用できぬ」と捨てぜりふを吐くほどだったのである。ちなみに、安定で挙兵した楊条というのは、馬超の乱で名の挙がっている楊秋の一族だろう。もともと曹氏政権には含みのある連中なのである。

また韓遂馬超は関中盆地の少数民族と親密であり、これらも蜀に通じていた。さらに漢寧太守の張魯のもとにいた巴郡の少数民族、杜濩・朴胡らが配下の領民ともども、街亭にほどちかい略陽*1強制移住させられている。


魏延に好意的に解釈してやるとすると、かれはおそらく漢中から長安までの道筋にあたる少数民族とあらかじめ話をつけてあり、かれらの部落にかなりの食糧を集積していた。そして関中盆地の有力部将、豪族らとも内応の約束を取りつけていたのではないか*2。夏侯楙や郭淮など、もともと中原から単身赴任してきたよそ者にすぎず、依るべき手勢もない。ひざもとの諸将が離反すれば、なすすべもなく首を落とされるか、せいぜい長安城を抜けだすしかなかっただろう。関中の穀、関中の兵でもって関中に君臨し、それらをこぞって潼関を封鎖したならば、どうだろう。曹操でさえ、烏合の関中軍閥を平定するのに、まる一年近くかかっているのだ。よく統率された諸葛亮軍ならば、けっして引けをとるものではないだろう。

魏延に好意的に解釈してやると。

*1:王平伝では間違って「洛陽」と書かれている。

*2:くさっても魏延は漢中太守なんだぜ?