荊州改易の件

【三国志博物館集解】曹操の「禹貢九州」再編
討論場の章陵郡の件。献帝起居注の九州再編の記事内に、章陵郡を含めたもとの荊州八郡が列挙され、章陵郡の考証の材料の一つになったわけです。
しかし『晋書』地理志と照らし合わせると、問題発生。討論場でも書き込みにあるよう、曹操荊州を平らげ、襄陽郡、南郷郡などを新設したとされています。これが『献帝起居注』には反映されてない。これは一体どっちが正しいんだ?
気になってさらに調べると、『三国志』中に、これら新郡設置の記述が見つからず、建安年間中に魏の襄陽、南郷太守任官者も見つからない。なぜか見つかるのは、蜀の襄陽太守関羽、南郷太守郭睦。何故魏で郡の設置が確認できず、敵対する劉備が律儀に採用してるんだ?南郷郡設置は建安末なんて説もでてくるし。
もう、なにがなにやらわかりません。

南郷太守として名が伝わってるのは傅方と郭睦の2人。傅方は関羽北上、郭睦は関羽敗死のときの人であり、九州復古のときはまだ南郷郡は置かれていなかっただろうと思います。なお、郭睦は蜀ではなく状況からみるに魏の人かと思います。

また襄陽郡を最初に置いたのは蜀であり、魏ではないです。周瑜が南郡太守だったころ、蜀は襄陽郡を立てて関羽を太守としました。蜀はさらに宜都郡を立てて張飛を太守としています。いっぽう呉は西陵郡を立てて甘寧、漢昌郡を立てて魯粛を太守としています。また、夷陵役に前後して、蜀は零陵郡を割いて昭陵郡を立て、習珍を太守としています。ひるがえって魏は南陽郡を割いて義陽郡を立てています。また江夏郡は魏・呉で争奪しあって両国にそれぞれ江夏郡があります。

http://m.z-z.jp/thbbs.cgi?id=359kk&th=328&style=1&num=all
未確認で申しわけないですが、『水経注』によれば章陵郡は春陵のことらしいので、襄陽の東(南陽郡と江夏郡の境界あたり)ですね。上庸とは無関係です。

春陵ではなくて舂陵ですね。

(同上)
水経注によると、魏の黄初二年章陵県が安昌県に改名(『集解』の記述より)
この年には、章陵という郡名も県名も消滅したと考えられる。

黄初3年に曹拠が章陵王になっていますね。