陳琮と陳公琰と陳応と陳某と陳某

陳琮というのは陳瑀の弟、汝陰太守。字は不明。ただ、『三国志』呂範伝の注に引く『九州春秋』に、袁術に攻められた陳瑀が弟の公琰を使者として和睦を乞うた、という記事があり、この公琰が陳琮と同一人物と考えられている。

陳応というのは陳珪の中子(次男)で、当時は故郷の下邳に住んでいた。陳珪が袁術の招聘を断ると、袁術は陳応を人質にとって陳珪をむりやり呼びこもうとしたが、けっきょく陳珪は頑として動かなかった。このほか、名は伝わっていないが陳登の三弟(陳珪の三男)というのがいる。曹操呂布を攻撃したとき、陳登が曹操側に味方したため、呂布がその三弟というのを人質にとり、陳登を仲間に引きいれようとした。しかし呂布の部下の張弘というのが三弟を連れだして陳登のもとに馳せさんじた。

陳瑀の父にあたる陳球がかつて零陵太守を務めていたころ、反乱軍を鎮圧した功績により、息子の一人が郎に任命されている。この息子というのは陳瑀のことだろうか?しかし『後漢書』陳球伝の注に引く『謝承書』に、かれが郎になったという記述はない。陳瑀の弟だろうか。