光武帝紀27 「馬援」

ついに馬援が登場。


この年の冬、馬援*1が隗囂*2の使者として到来した。

馬援は字*3を文淵*4といい、茂陵*5の人である。長兄の馬況*6が一番名を知られていて、河南*7太守*8となり、窮虜侯*9に封ぜられていた。次兄の馬余*10は中塁校尉*11で、致符子*12に封ぜられた。その次の馬員*13は増山*14連率*15であり、そろって二千石取りの諸侯だったのだ。

馬援は若いころから大志を持っていたので、兄たちも立派なやつだと思っていた。十歳あまりのとき、同い年だった平陵*16の朱勃*17が『韓詩』*18をよく理解していたので、馬援のほうはやっと字が書ける程度だったのを、別れたあと屈辱に感じていた様子だった。馬況が馬援に告げた。「小さな器ほど早くできあがるという。朱勃の智慧は今日でこそ充分に発揮できるだろうが、後年、成人したときの智慧ならば、諸事もろもろ、お前の思いどおりになるだろう。才能のことを心配することはないぞ。」馬援は、馬況が自分をはげまそうとしているだけだと考え、内心では違うと思っていた。

馬援は『斉詩』*19を学んだが、数年後、章句*20を尊重する気持ちになれず、馬況に別れを告げて、辺境の地へ行って牧童にでもなりたいと言った。馬況が言った。「お前は大きな才能の持ち主で、かならず晩成する。よき職人は他人に粗玉を見せぬものだ。まあ、やりたいようにやるがよかろう。」旅立ちの準備も終わらぬうちに、そのとき馬況は亡くなってしまった。馬援は期間どおりの喪に服し、決して墓地から離れようとはしなかった。

そのころ朱勃は試験採用として渭城*21の宰*22を任されていたが、馬援は「朱勃はいつかきっと私を仰ぎみることになるだろう」とつぶやいた。

しばらくして、ある人が雄大な才略の持ち主だからと馬援を推薦してくれたので、督郵*23となったが、罪人を司命府*24へ護送しているとき、馬援は全員を釈放してやり、その足で北地*25へ亡命して放牧の仕事をした。馬援の父は牧帥令*26を務めたことがあり、兄の馬員も護宛吏者*27だったので、数多くの知人や食客が付いていった。

安定*28、天水*29、隴西*30といった諸郡を転々とするうちに、豪傑どもが噂を聞いただけで駆けつけ、いつも数十人もの賓客たちが群れつどった。馬援の牧場は日ごとに広くなっていき、羊は五〜六千頭、馬は数百頭、食糧は一万斛まで増えた。そこで、「だいたい殖財というのは施しを貴ぶものだ。守銭奴にはなるまいぞ」と、ため息を吐いて、従兄弟や知人たちに分けあたえてしまった。それから、長安*31へ行った。

王莽*32政権の末期、盗賊どもが蜂起した。王莽の従弟である衛将軍*33王林*34は英雄豪傑の士を求めていたので、馬援と原渉*35を招聘した。原渉は潁川*36太守、馬援は漢中*37太守となり、ちょうど赴任する途中で王莽の敗死を知った。馬員もまた増山に逃避していたので、一緒に涼州*38へ行った。

そのころ隗囂は、馬援を取りたてて綏徳将軍*39としていた。公孫述*40が蜀*41で帝位を称したとき、隗囂はだれに味方をすればよいのか分かりかねたので、そこで馬援を南方への巡察に出した。

公孫述はもともと馬援と面識があったので、来訪には握手で出迎えるべきだった。ところが武装兵を盛大に並べて馬援に謁見し、言葉数も少なく、馬援を案内して迎賓館に逗留させた。公孫述は立派な衣服を身につけて百官を一堂に集めると、馬援には旧友としての座席をしつらえた。公孫述は恭しい態度で入場し、鸞旗*42、旄騎*43の先導のもと、警蹕*44させて車に乗った。食器、衣服は華々しく、賓客は満ちあふれた。(贅沢をさせて)馬援を引き留めるつもりだったが、馬援は「天下の雌雄はいまだ決定しておらず、公孫*45どのは吐哺*46して国士を走り迎えて議論を練るべきところ、なんと身辺を飾りたてておるとは、まるで木偶の坊ではないか。こんなことでは、どうして長く留まれようか?」と言い、数ヶ月後には立ちさった。

帰国して隗囂に告げた。「子陽*47どのは井の中の蛙、自分がえらいと思いこんでいるだけです。東方*48に誠意を尽くした方がよろしいでしょう。」こうして馬援は拒蜀侯*49の国遊先*50とともに書状をさげて京師*51へ行き、到着すると、招かれて尚書*52に行った。しばらくして一人の中黄門*53が招きいれた。

(劉秀*54は)このとき宣徳殿*55にいて、馬援が拝謁すると、劉秀は大笑いしながら「あなたは二人の皇帝の間を行ったり来たり。あなたを見ていると恥ずかしくなってくるよ」と言った。馬援は平伏してお詫びしたあと、「この時代、ただ君主が臣下を選ぶばかりでなく、臣下もまた君主を選ぶのです。臣は公孫述と同じ県の出身で、若いころ一緒に遊んだこともございますが、臣が最初に蜀を訪れたさい、武装兵を並べて臣を謁見いたしました。臣、馬援は異国から参りましたが、陛下はなぜ臣が刺客でないとお考えになり、そのような簡易なお召し物を着けておいでですか?」と尋ねた。

劉秀はまた大笑いして言った。「あなたは刺客などではない。思うに、説客といったところだろう。」馬援は答えた。「天下は引っくりかえっており、みずから姓名を称する*56盗賊どもは数えきれません。ただいま陛下にお目見えがかないましたが、広大なる度量は高祖*57と同等でございまして、帝王たる者は生まれながらにして真実を備えているものだと、はじめて理解いたしました。」劉秀は勇壮な人物だと感じ、征伐戦に従軍させ、いつも面談に招き、夜は空が白むまで語りあった。

馬援の才能計略は人並み以上であり、また外交的戦略を好んでいたので、そのため官職に就くことができず、詔勅が下されるのを待つしかなかった。劉秀は太中大夫*58の来歙*59に節*60を持たせ、馬援を送りださせた。国遊先は長安に到着したとき、敵対する一家に殺され、その弟が隗囂の雲旗将軍*61になった。来歙は巻き添えを恐れ、すぐに馬援と一緒に長安*62に帰った。

*1:ばえん。

*2:かいごう。群雄の一人。

*3:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*4:ぶんえん。

*5:もりょう。県名。

*6:ばきょう。

*7:かなん。郡名。

*8:たいしゅ。官名。郡の長官。

*9:きゅうりょこう。「窮虜」を称号とする諸侯。窮虜は「北方民族を追いつめる」の意。

*10:ばよ。

*11:ちゅうるいこうい。官名。本営所属の将校。

*12:ちふし。「致符」を称号とする子爵。

*13:ばうん。

*14:ぞうさん。郡名。漢の上郡にあたる。

*15:れんそつ。官名。漢の太守にあたる。

*16:へいりょう。県名。

*17:しゅぼつ。

*18:かんし。韓の国の詩集。

*19:せいし。斉の国の詩集。

*20:しょうく。経典の文章のまとまりごとに解釈を行う学派。

*21:いじょう。県名。

*22:さい。官名。県の長官。漢の令、長にあたる。

*23:とくゆう。官名。属県の監督役。

*24:しめいふ。検察庁

*25:ほくち。郡名。

*26:ぼくすいれい。官名。おそらく「牧師令」(ぼくしれい)の誤り。辺境の地で牧畜を行う。

*27:ごえんりしゃ。官名。おそらく「護菀使者」(ごえんししゃ)の誤り。牧場の管理人。

*28:あんてい。郡名。

*29:てんすい。郡名。

*30:ろうせい。郡名。

*31:ちょうあん。県名。前漢、新の王莽(おうもう)が都とした地。

*32:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*33:えいしょうぐん。官名。

*34:おうりん。

*35:げんしょう。

*36:えいせん。郡名。

*37:かんちゅう。郡名。

*38:りょうしゅう。州名。

*39:すいとくしょうぐん。綏徳は「民衆を慰撫する仁徳」の意。

*40:こうそんじゅつ。群雄の一人。

*41:しょく。四川地方。

*42:らんき。おおとりを描いた旗。

*43:ぼうき。毛旗を持たせた騎馬武者。

*44:けいひつ。天子の行く手に声を掛けて道を空けさせること。

*45:こうそん。公孫述。

*46:とほ。人材を出迎えるため、食事中に口の中のものを吐き出すこと。周公(しゅうこう)の故事。

*47:しよう。公孫述の字。

*48:洛陽に都をおく劉秀(りゅうしゅう)を指す。

*49:きょしょくこう。「拒蜀」を称号とする諸侯。拒蜀は「公孫述を拒絶する」の意。

*50:こくゆうせん。

*51:みやこ。

*52:しょうしょ。書記官。ここでは尚書台(尚書の役所)を指す。

*53:ちゅうこうもん。官名。皇帝の世話役。

*54:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*55:せんとくでん。宮殿名。

*56:文意が読みとれなかった。君主の名を僭称するという意味だろう。

*57:こうそ。劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*58:たいちゅうたいふ。官名。

*59:らいきゅう。

*60:はた。勅使の証。

*61:うんきしょうぐん。官名。

*62:「隴西」の誤りと考えられている。