宗預の将軍号と陳祗の没年

三国志』と『華陽国志』では、宗預の将軍号、陳祗の没年に食いちがいがある。


『華陽国志』後主志には景耀元年(二五八)、宗預が鎮南将軍になったと記されている。しかし『三国志』宗預伝では鎮軍将軍とある。任乃強は、このとき陳祗が鎮軍将軍に就いていたので、『華陽国志』のほうが正しいと述べている。そこで『三国志董允伝を見てみると、陳祗は景耀元年に亡くなったとある。とすれば、これは任乃強の誤りで、景耀元年に陳祗が亡くなったので、その後任として宗預が鎮軍将軍になったと考えるべきではないだろうか。『三国志』を読むかぎりでは、それで辻褄が合う。

ところがどっこい、『華陽国志』では陳祗の死を景耀二年の秋、八月丙子だとしている。ここまで詳述している『華陽国志』のほうがよほど信用できそうなのである。こちらのほうが正しくて、『三国志董允伝のほうが間違っているのだとすれば、やはり宗預は鎮南将軍なのである。

ところがどっこい、中研院【両千年中西暦転換】で検証してみると、景耀二年の八月には丙子が存在しないのだ。では元年八月のほうに丙子が含まれているのか。いや、やはりこちらも含まれない。前後を調べてみると、景耀四年でようやく丙子を含む八月が現れる。おそらく『華陽国志』『三国志』の両方が間違っていて、宗預は景耀元年に鎮南将軍となり、陳祗は景耀四年に亡くなったのである。「四」を古字で「亖」と書いていたので「元」や「二」と写し間違えたのかもしれない。

あるいは、陳祗が亡くなったのを景耀元年八月の甲子と見ることも可能かもしれない。とすれば、やはり宗預は鎮軍将軍だったのだろうか。

結論は出ない。

ちょーかんちがい

わたしが転換表の読みかたを間違ってるだけだった。

景耀元年の八月に丙子が来ていた。そして、景耀二年の八月にも。どっちやねん。