孔嵩

荀彧の旧友。
か?

『裴子語林』
(原文)孔嵩字仲山,南陽人也,少與潁川荀彧未冠時共遊太學.彧後為荊州刺史,而嵩家貧,與新野里客傭為卒.彧時出,見嵩,下駕.執手曰:『昔與子搖扇倶遊太學,今子為卒,吾亦痛哉!』彧命代嵩,嵩以傭夫不去.其歳寒心若此.嵩後三府累請,辭不赴.後漢時人.

(訳文)孔嵩は字を仲山といい、南陽の人である。元服前の若いころ、潁川の荀彧とともに太学に遊学したことがある。荀彧はのちに荊州刺史となったが、孔嵩は家が貧しく、新野の浪人らと一緒に傭兵になった。荀彧はたびたび出かけては孔嵩に会いに行き、駕籠を下りて孔嵩の手をとり、「むかし、あなたと一緒に扇を揺らしながら太学へ遊学したものだ。いま、あなたは兵卒になっている。わたしは悲しくてたまらないよ!」荀彧は孔嵩を配置替えせよと命令を出したが、孔嵩は「雇われの身でございますので」と言い、離れようとしなかった。かれの老年期における気持ちはこのようなものであった。孔嵩はのちに三公の役所からたびたび招聘されたが、辞退し、出向かなかった。後漢時代の人である。

『捜神記』には曹操荊州を平らげたのち、涿郡の李立が荊州刺史になったとある。荀彧はその後任だろうか。しかし荀彧はすでに侍中守尚書令という中央政府の要職にあり、兼務するとしても、刺史では品位が低すぎるように思う。南陽郡が曹操の支配圏に落ちたのは張繡の来降からだろうが、その時点までさかのぼっても荀彧はすでに在職していた。

たぶん『後漢書』に伝のある范式のことと混同されている。