堯=ノア説

この愚行はスケールがでかすぎる。


こないだのエントリに関連してくるかもしれませんが、伏羲=アダム、堯=ノアなどとする奇説が西洋世界でまじめに語られていた史実があったそうです。

【徹夜城の多趣味の城】史劇的伝言板 #8503

岡崎勝世「聖書VS世界史・キリスト教歴史観とは何か」(講談社現代新書1996)

 がなかなか面白かったです。
 つまり聖書を絶対視し、それが「史実」でありこれからの予言書でもあると考えるヨーロッパのキリスト教歴史観が、どのように現代まで変遷していったのかを読みやすくまとめた本です。「歴史とは何か」と葛藤し続けた西洋知識人たちの歴史といってもいいでしょう。
 聖書を絶対視するったって、天地創造がいつなのか、ノアの洪水がいつなのか、キリスト誕生がいつなのか、はたまたどういう風に年数を数えるのか(この本読むとわかりますが、キリスト紀元、すなわり西暦というやつも案外最近になって確定したもんなんですな)、もうあれやこれやといろんな議論があったわけです。これだけでも面白いんですが、ヘロドトスやローマ時代の歴史書によるとエジプトの歴史が途方もなく長く、ノアの洪水より古いことになっちゃって聖書と矛盾してくるのをどう解決するかとあの手この手考えたあたりはほとんど笑っちゃうほどです。

 さらに16世紀以降、それまでヨーロッパ人にはほとんど未知の世界だった中国を知り、その歴史が膨大な史書として編纂され続けていたことがこちらの想像以上にヨーロッパ人に衝撃を与えたことも大きく触れられています。自分たちが信じていた聖書的歴史観からまるっきり外れた長大な歴史に圧倒されてしまったイエズス会士たちやヨーロッパ知識人などは素直に「聖書の方が間違ってた」と考える一方で、中には無理やり整合性を図ろうとするウルトラCも出てくるんですね。
 つまり中国史に出てくる伝説の帝王「三皇五帝」は実は聖書の人物なんだという説でして(笑)。17世紀のオランダの史家・ゲオルク=ホルンなる人物は「伏羲=アダム」「神農=カイン」「黄帝=エノク」「尭=ノア」と「同一人物説」で説明しちゃうんですね。
 この説を受けてイギリス人ウェッブは「尭はノアであり、ノアとその息子たちは中国にいて、箱舟を作ったのも中国。バベルの塔以前の世界も中国にあり、それ以前の人類言語は中国語だった」とまで主張。ドミニコ派のナヴァレッティは「伏羲=ハム=ゾロアスター」という三者同一人物説を主張し、その後も18世紀にかけて「黄帝=ノア説」「盤古=ノア説」「神農=ノア説」とまぁ、これでもかこれでもかといろんな説が唱えられたのだそうで。ここまで来ると笑っちゃうしかありませんが、それだけ中国史との遭遇は「聖書史観」(この本では「普遍史」という訳語を使います)にとって重大な死活問題であったというわけです。
 この本には出てこない話ですけど、20世紀の中国の方でもこれと呼応するよう発想は出てくるんですよね。やはり洪水伝説が出てくることから伏羲=ノア=箱舟説でミャオ族の古代神話だとする見解とか、中国語と英語(印欧語?)は実は根っこがいっしょだとする説とか(まぁ確かに文法的にはねぇ)。

聖書は無謬なんだという信念さえ捨てればラクになれるんですが、どうしても信念が捨てられない。その立場を守り矛盾を昇華してこそ後年の神学の発展があるんでしょうが、やっぱ傍目には壮大な遠まわりにしか見えないっすね。さて、わが国にも同類がいるわけですが。