赤壁両陣営の情報量
【花郁郁たる高陽里】やっと十品にあがりました〜o(*^▽^*)o♪
じゃあなんでそういう失敗をしてしまったのか。官渡では、あれだけ実力差のあった袁紹に勝てたのに。
それはやはり、当時の曹操軍が持って居る情報というのが、呉の首脳陣については、かなり手薄だったからだと思うんですよ。というか、官渡で勝てたのは、荀彧が相当袁紹軍の面子について詳細な情報を持って居たことに、その勝因を求めることができると思います(郭嘉も一瞬だけ袁紹軍に居たけど、確か数日なんだよな……)。
(略)
しかし、その情報には、実は南はあまり入っていなかった。潁川人士のネットワークは、実は南には届いていない。後に魏の中枢を担う人材で、南に関わりがあるのは、確か華歆ぐらいだったと思うのですが、その華歆も孫策の死後まもなく北方に来た(んですよね……?)、孫権政権の内部事情については、恐らく大して知らなかったと思います。ところが逆に、孫呉政権には、北から流れて来た人がかなりいた。張昭からしてそうだし。つまり、持って居る情報量で言えば、実は孫呉の方が勝っていた。しかも劉表配下の荊州水軍と言えば、孫呉の長年の宿敵。つまり曹操は、相手に内部事情が相当ばれている軍隊を率いて攻め寄せてしまったと言ってもいい。
なるほど。そのとおりだと思った。
荀彧のみならず、官渡時点での曹操陣営には河北の事情や人物を知るものが多かった。なにより曹操自身が袁紹配下の一部将として河北で戦歴をかさねている。両陣営の参謀らは群雄割拠の時代になる以前から互いに交流のあったもの同士。許攸は曹操の旧知、淳于瓊は西園八校尉の僚将、荀諶、郭図、辛評は潁川グループ、逢紀、陳琳は何進幕僚としておそらく曹操陣営につながりを持っている。袁紹陣営の人物評価をした荀彧はかつて袁紹のもとにあり、孔融は袁紹に大将軍の官職を授ける勅使として河北を訪れている。曹操が袁紹を知っているだけでなく、袁紹もまた曹操を知っていたことだろう。政治的に対立しているとはいえ、人脈の連なりと情報の集まりをみれば袁曹は一体である。
一方、孫呉はそうした北方の世界とは一線を画しており、華歆、王朗、張紘らを除いてはほとんど交流がないように見える。曹操は荊州を併合して同地の情報を吸収したが、官渡戦時に有していた情報量の優位にはとうぜん及ばない。
のちに陳琳が「呉の将校部曲に檄する文」なるプロパガンダ文書をしたため、呉の将校に読ませて投降を誘っているが、その内容は中原において曹操がいかに敵陣営の諸将から信頼され投降を誘ったかを強調する一方、肝心の江東の諸将についてはほとんど書かれていない。要するに、曹操の威信は江東に及んでいなかったし、江東の情勢は中原に伝わっていなかったということだろう。