異常事態に対して

なんかいろいろご批判をいただいてますけども。
わたしの関心事と世間一般の関心事の矛先にズレがあるようで、今回にかぎらず、わたしの意図する対象が共有されないというもどかしさがあります。


たとえばid:fuku33さんが講義でトリアージを取り上げた件について、わたしが「それはトリアージではないよ」と指摘させていただいたわけですが、これを「mujinはfuku33批判をしている」と受け取られてしまう状況があります。もちろん、わたしはfuku33さんの議論は間違ってると思いますが、それ自体はしごくありふれた謬論だというだけでべつだん取り上げるほどのことはないのです。わたしがわざわざかれの議論に言及したのは、その議論が間違っているからではなく、その間違いに気づく人があまりに少なかったからなんですね。すでに100を越えるコメント、はてブが付いていましたが、そのなかでfuku33さんの議論を批判的に捉えたものはわずかに2つしかなかった。その異常事態に危惧を覚えたという経緯があります。

また、北海道新聞の記者が当時の麻生首相に質問したことに対し、この記者一人の意志として論評する意見がはてブに見られたので、やはりこのときもブックマーカーに対して「そうではなく、記者クラブの総意として実施された質問だよ」と指摘しました。ところが、このときも「mujinは麻生批判をしている」という受け取りかたをする人が多かったですね。そのときわたしのエントリには「メディア」タグが付いていて、タイトルも「記者クラブ問題が知られていない」としましたが、つまり指摘の矛先をはっきりとはてブに向けていても、それが麻生さんに向いていると誤解されているわけです。

さらに近くは、id:isikeriasobiさんの件があります。わたしは現場で活躍する実務家に対して批判する資格はないがと充分に前置きしておいたつもりですが、それでもisikeriasobiさんを批判しているかのように解釈されてしまうわけです。わたしが矛先を向けているのは、isikeriasobiさんを祭り上げている、はてな住民のほうだったのですが、あれだけ挑発的に茶化して書いてもなお矛先があっちに向いていると思われている状況があります。あの茶化しかたにはかちんと来ている人が多いはずです。まさにその感じを覚えた主体に向けて書かれている。かちんと来たのは自分なのに、どうして自分に対する批判だと受け止められなかったのか、わたしにはそれが不思議です。

子どもが「王さまは裸だ」と言うとき指先は王さまに向けられているけども、その言葉の矛先は王さまではなく群衆に向けられています。その言葉の真意は「王さまが着衣していると信じているお前らの目は節穴だ」です。王さまの裸を指摘するのは群衆を説得する手段であって、目的ではありません。


さて今回、やはり同様に、わたしがid:toledさんにケチを付けているかのように読解されているかたが多いようで、その読みに基づいてご批判をいただいています。たとえば代表的にid:y_arimさんですね。y_arimさんはid:font-daさんたちのはてブを援用して、こうおっしゃいます。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090929/1254246684
まあ、ぼくの言いたいことはnopiko氏とzaikabou氏とfont-da氏に全部言われてしまっているんだけれども、たかだか排外主義に反対するだけの簡単なお仕事が「殉教者」呼ばわりされたり「覚悟」が必要とされたりする現状が十分に異常事態なんだね。

ここで挙がっているid:nopikoid:zaikabouid:font-daさんのコメントは、わたしのエントリに対する否定的なご意見ですので、これに続く「たかだか排外主義に反対するだけの簡単なお仕事が「殉教者」呼ばわりされたり「覚悟」が必要とされたりする現状が十分に異常事態なんだね」という箇所も、わたしのエントリに対するご批判であろうと思われます。

が、わたしにはこれがよく分からないんですね。わたしはそのような異常事態の存在を否認したことがないので、なぜことさらに異常事態であるとご指摘いただかなければならないのか。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090929/p1
y_arim racism, violence, politics mujin氏の記事のブクマに書くべきだったことなんだけど、たかが排外主義に反対する程度の 当 然 の ことに「覚悟」だの「信念」だのを持たなきゃいけない現状がすでに異常だ。例外状況の常態化、だっけ? 2009/09/30

もちろん異常事態です。おかしいのです。おかしいから、toledさんは異議を表明したわけでしょう? y_arimさんは否認したいのかもしれないけれども、意見表明に覚悟が必要とされる現状があることは、すでに同時に認めておられるわけです。toledさんはわざと殴られに行ったわけではないでしょう。しかし、かれがカードをさげて路上に立つとき、恐怖心の克服を必要としたことは想像にかたくありません。それでも、あえてそれを行ったわけです。その主体的な決断をなかったことにするのはいけません。

カードをさげて意見表明をすることは簡単です、排外主義者集団の前でなければ。id:kinyobiさんが身を挺してtoledさんを守ったことを勇気ある行動と称える人が多いです。しかし排外主義者集団の前で反対意見を表明することは「ただ紙を持ってただけじゃん」の簡単なお仕事でしょうか。もしそれが本当だとすれば、あの日あの場所で、いったい何人もの大勢の人びとが反対意見を表明したんです? 少なくとも、わたしにはできなかったことです。

わたしが言いたいのは、それが困難な大仕事であり、それをやりとげたtoledは英雄と呼ぶにふさわしい人物だ、ということではありません。かれが恐怖心の克服を必要としたことです。そこにこそ、主体性がある。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090929/p1
このような立場に立てば、つねちゃんは「純粋な」暴力の被害者であり、ゆえに英雄以外の何者でもなくなってしまう。

殉教者だとか英雄だとかいった言葉は、その言葉の原義のまま使われる場合とカッコ付きで比喩として使われる場合があって、扱いがなかなか困難なので、わたしはわざと大げさに茶化して言う場合を除き、あまり使いたくありません。しかし、ここでid:hokusyuさんが多数派の論理を採用すれば「英雄以外の何者でもなくなる」というのは充分に考慮を尽くしたものではありません。

暴力の客体になるだけではカッコ付きの「英雄」どまりです。抵抗の主体になることによって初めてカッコが取れて真の英雄になります。もっとも、排外主義者集団の前で反対意見を表明することは英雄のみならず、普通の人でも勇気を振りしぼればできるはずなので、わたしはtoledさんを英雄だと称揚したくありません。かれは英雄ではなく、普通の人です。ただし、勇気を振りしぼって主体的に行動した普通の人です。

わたしがはてなの論調に危機感を覚えたのは、toledさんの主体性があまりに無視されていたからです。じっさいtoledさんが暴力の客体になることを望んだとか、あるいは覚悟していたとか、つまりわたしのエントリに書かれた邪推が当たってるかどうかは、実はどうでもいいことです。それよりも重要なことは、かれは暴力の客体であるだけでなく、抵抗の主体でもあったということです。道ばたに立っていたら、たまたま通りすがった暴力集団に後ろから襲われた、というだけではありません。かれらの暴力性を知りながら恐怖心を抑えて真正面から立ちはだかったという事実を軽視することはできないのです。でなければ、あなたはなぜtoledさんのとなりに寄りそっていなかったのか?

はてなの論調はおおむねtoledさんの抵抗者としての主体性をなおざりにするもので、被害者、つまり暴力の客体としてのみ捉えたものが多かった。そこに、わたしが危機感を覚えるゆえんがあります。

toledさんをカッコ付きの「英雄」「殉教者」にしてしまうには、かれの意志を必要としません。かれをそうするのは、かれを称揚する周囲の人びとの合意です。

もっとも分かりやすく知られた例が、昭和天皇です。この人は決して自分を神であるとか、戦争が必要だとは思っていなかった。しかし、周囲の人びとがかれを「現人神」の座に祭りあげ、かれの「叡慮」であるとして戦争を推進しました。昭和天皇の主体的な意志はそこでは問題にもされていません。toledさんが純然たる被害者であるとの見方は、それとどう違うのでしょうか。周囲の人びとがそうだと決めれば、そうなってしまうのです。そして、それもまた一つの暴力なのです。

わたしのエントリに対する批判はおおむね「toledさんは英雄や殉教者ではない、被害者だ」とするものですが、わたしには、かれの主体性がなおざりにされているという点で、「殉教者」も「被害者」も同じ意味にしか見えていません。被害者ではなく被害者だ、殉教者ではなく殉教者だ、と言っているのと同じです。かれをそうするのは、かれ自身の意志でもなく、かれに危害を加えた集団でもなく、かれをそのように扱いたい周囲の人びとの意志です。それは空気のように漏れ、ただよっています。

かれを純然たる被害者と位置付けて同情している人びともまた、自分が、かれの主体性を剥奪している主体であるという認識を持っていないように見えます。自分自身にさえ、toledさんから主体性を奪うという行為にさえ、主体性を認めていないのです。ここには、責任の主体がありません。

わたしが恐怖するのは、その点です。