2010年08月19日のつぶやき
帰宅。今日は五反田とんちゃん。
posted at 23:51:36
電車で聞いた子どもたちの会話。「おれ4歳だぞ!」「ぼくも4歳!次は5歳なの!」「一緒だ!おれも次5歳!」
posted at 10:57:26
ご自身の発言にこれだけ不誠実な人はいまだかつて見たことがない。
posted at 08:49:15
区別しているのが当方であり、混同しているのが先方なのだが、もう、あちらさんは自分がなにを言っているのか訳が分からなくなっているようだ。あげく、矛盾を指摘されると、自分は一貫性があるのに理解してくれないのは不誠実だ、と来る。混同してるのはお前、不誠実なのはお前だろう。
posted at 08:46:43
そもそも著作権とは別の文脈でパクりを禁止するルールはないという見解に対して、著作権をないがしろにしていると非難があったので、いや著作権とは別の文脈の話だと言っているところへ、著作権概念への無知であり、権利侵害であると主張している当人が、著作権問題ではない、混同するなと言っている。
posted at 08:44:03
それを新聞記事の引用で例示するにあたり、出所明示の有無以外の要件の不満足が混雑すると争点が分散してしまうので当然、他の要件を満たしていることを前提としている。ところが出所明示だけでよい、その他の要件はないと主張している当人が他の要件を欠くと反駁するに至っては呆れかえるより外ない。
posted at 08:35:40
丸パクりtweetは転載の問題であって引用の問題ではないが、しいて引用問題として考えても、複数ある引用の要件のすべてを欠いている。だから出所明示だけで要件を満たすという主張は誤っている。
posted at 08:29:33
起きちゃー。
posted at 08:21:22
寝る。
posted at 01:30:28
靖国の英霊信仰が傍迷惑なのは、その感謝が「われわれを敵の手から守ってくれてありがとう」という形を取るために、かならず「敵」を必要としてしまうところ。敵が存在しなければ、感謝の発する足がかりがなく、自分自身を愛せなくなってしまうからだ。
posted at 01:30:23
ただ、なにかに感謝をささげるという儀式をつうじて自分自身に感謝するうえで、感謝をささげる対象がなにかということは恣意的に決定されることであって、その選択にはほとんど理由がない。それがしばしば他のだれかにとって傍迷惑になることもありうる。
posted at 01:25:46
物心がついて、友だちと仲良くなれるのは、その友だちを自身と同一視することにより、友だちを喜ばせることを自分が喜ぶことと同一視できるから。だから、こうした倒錯的に見える振るまいはこの社会をうまく動かすために欠かすことができない。
posted at 01:23:16
子どもがテディベアをかわいがるのは、テディベアがかわいいからではなく、その向こうに自分自身を投影していて、その自分自身をかわいがっている。だからテディベアの手足がちぎれると自分のことのように子どもは泣く。
posted at 01:20:49
戦死者に「感謝」をささげているように見えて、その実、自分自身に「感謝」している。自分が「感謝」されていることに満悦している。倒錯のように見えるが、実は社会を営む人間にとっては非常に重要なことで、他者への供与を自分の満足に代えることで、この社会に相互扶助が成り立っている。
posted at 01:19:13
「ありがとう」と言う人にとっては、それを言う行為そのものが目的なのであって、行為の対象となる戦死者や水が実際にどうなろうと本当はさほど気にしてないでしょうと。
posted at 01:06:04
いや、茶化してるんじゃなく。
posted at 01:03:16
@ProdigalSon_JP 内心を憶測するに、水に「ありがとう」という心境と同じなのではと。
posted at 00:58:59
この点は『華陽国志』と一致してますね。RT @Ouchin3594 それに『蜀志』後主伝には「進蔣琬位為大司馬」とあるし
posted at 00:31:24
@Hiro_Satoh 蔣琬を霍光になぞらえるということは、皇帝の首をすげかえる下準備と見なすことができるかも。大司馬大将軍霍光は先帝の甥を即位させ、不行跡を理由にそれを廃した。
posted at 00:03:40