2010年08月29日のつぶやき

劉寛碑では公孫瓚の字が伯圭とある。伯珪ではなく。応劭の字も本伝と違っている。

posted at 21:06:12

「漢に忠たり、黄家の叔」という意味でとれば漢叔のほうが通りがいい。とすれば、かれは三男坊であり少なくとも二人の兄がいたことになる。

posted at 19:48:20

黄忠の字を漢叔とする本がある。本伝は漢升。活字では分かりにくいが混同しやすい字。公孫度は孫登を自分のことだと言っていて、字が升済であることが確認できるが、黄忠は傍証がないため漢叔、漢升のいずれが正しいのか分からない。

posted at 19:37:10

なんかそれでいいような気がしてきた。

posted at 19:27:31

管氏の子孫が書き継いだものであるなら、劉太常による管辰評も引用されて不思議でないということになるなあ。陳寿は長広太守を罷免されたあと、御史治書や太子中庶子になっているので、その間に書かれた本だな。

posted at 19:21:37

うーん。陳承祐が華廙から聞いた話のなかに管辰は太康初に死んだとある。少なくともこの行以下は管辰の手によるものではないということ。管氏の子孫が書き継いだものかな。

posted at 19:16:49

管辰はかれを劉太常と呼んで劉侯とは呼ばないし、自分を評価する言葉を引用するはずがない。裴松之もかれをすでに劉寔と呼んでいて劉侯と呼ぶ理由はないし、劉太常の物語が管輅別伝の10倍もあるとは言えるものではない。とすれば、やはり閻纘か、ということになってくる。

posted at 19:13:37

裴松之はどの人物についても原則として姓名で呼び、字を呼んだり敬称で呼んだりしないのです。それを華長駿、華城門、盧公としているのは、その箇所が管輅別伝またはその他の書からの引用であることを示しているわけです。ただ引っかかるのは劉太常を劉侯と記す箇所で、ここだけは説明を付けがたい。

posted at 19:07:30

もちろん確証はないですが、陳寿の箇所はやはり管辰の筆によるもので、途中で裴松之私見を挿入し、続いて管辰によって紀玄龍以下の行が続いている可能性はかなり高いです。管辰は晋代を見ています。劉太常は何晏と同世代の人です。閻纘の引用はやはり裴松之のような気も。

posted at 18:43:37

しかし劉太常の言葉として「管辰は孝廉の才なり」とあり、別伝の著者である管辰が他人の言葉とはいえ引用するはずがないので、管辰ではなく別の著書からの引用と分かります。

posted at 18:31:58

@Ouchin3594 もともと自分が管輅別伝の一節と誤認したのも「近有閻續伯者」とあるところからで、閻纘は裴松之からみて近人ではありませんから、別伝の著者が長生きして閻纘や陳寿から聞き取りをしたのだろうと思ったからなのでした。

posted at 18:27:59

@Ouchin3594 はっきりとした区分がないので見極めは難しいですが、裴松之が自身の見解を挟んで他書の引用を行うことはままありまして、判断は内容による必要があります。裴松之の見解は管輅の年齢に関わる部分までで、そこから閻纘の紹介とその引用となる形です。

posted at 18:24:41

@Ouchin3594 ご指摘を受けて読み返してみましたが、これは管輅別伝でも裴松之でもなく、閻纘の著作からの引用ですね。巴西安漢の陳寿巴西安漢の閻纘に語ったということです。この箇所に限らないですが、多重に引用されるとどこからどこまでが引用なのか分かりにくくなってしまいます。

posted at 13:21:16

郡将といえば太守のことなのに、筑摩訳本では劉邠を「郡の武将」としているなあ。

posted at 08:38:08

@Ouchin3594 管輅伝に引かれる別伝の最後に長広太守陳承祐という人物が見えますが、これが陳承祚の訛で陳寿のことなんです。やはり長広太守であった何夔伝の集解に呉増僅説が引かれてその論証があります。

posted at 08:30:06

三国志』注の管輅別伝に陳寿が出てくるのに、筑摩訳本にスルーされてる。

posted at 00:49:49

五虎将を五行に当てはめたら、どう考えても黒面の張飛が水、赤面の関羽が火、雲龍趙雲が木、西涼馬超が金、黄中の黄忠が土になってしまう。ほかの可能性に至らない。魏や呉でもこんなにすんなり収まる例はない。

posted at 00:31:24