曹操の情報工作1800年

最終的な勝利者は曹氏と、その流れ引き継いだ司馬氏だった。かれらは漢朝を後継したことを正統性の根拠としているから、漢朝の正統性を否定することができない。だから史書では、曹氏が漢朝を否定するような事実があったとしても、絶対に、それを記述しない。しかし、曹操が朝廷に弓引いたのは事実である。

帝号を僭称した袁術ばかりを責めることはできない。なぜなら、だれが天意を承けるべきであるかはそれぞれに見解の相違はあるにせよ、漢朝滅亡は当時においても識者の一致する前提だったからだ。袁術のほかにも、下邳の闕宣、漁陽の張挙、益州の馬相らが天子を称しているし、荊州牧の劉表は天子のみに許された祭祀を行い、益州牧の劉焉は天子の気があると言われた益州で乗輿を作り、冀州牧の袁紹は黒い袋にくるんだ偽の詔勅を発し、遼東太守の公孫度もまた讖緯を信じて僭上を振る舞った。黄巾党の蜂起は漢朝への滅亡宣告として起こされたものだし、韓遂・王国らも天下は漢の有するものではなくなったと主張している。また、それらを鎮定した皇甫嵩さえも漢朝に代わって帝位に昇れと勧められた。荀彧は曹操を両漢の祖たる劉邦・劉秀になぞらえ、魯粛孫権に斉桓・晋文への道を諦めさせようとした。くり返す。漢朝滅亡は当時においても識者の一致する前提だったのだ。ひとり曹操だけが逆臣の汚名を蒙らずに済んだのは、結果的に勝利をつかんだからに過ぎない。もし袁術らが勝利していれば、当然、曹操の方が逆臣とされていたのだ。

それだけ多くの群雄が朝廷をないがしろにする行為に及んだのは、まず、朝廷が真実、衰退しきっていたという現状があったからだ。この当時の皇帝なんてのはなんら実力も権威もない。献帝を奉戴したことが曹操飛躍の契機になったことは間違いなく、そのため当時にあっても献帝にいささかの権威が続いていたのではないかと誤解しそうになるが、それならば、なぜ韓暹や張楊は天下を取れなかったのか。とりもなおさず、それは献帝がわずかな権威さえ有していなかった証拠である。あたかも朝廷になにがしかの権威があり、実力があり、衆人の忠誠があったかのように思わせているのは、あらかた政権を引き継いだ曹氏が大義名分を得るためにこしらえた偽りの事実なのだ。

21世紀になっても、いまだに、曹操が成功したのは献帝を擁したからだと信ずる人が多い。われわれは、まんまと曹操の情報工作に踊らされたまま、ずるずると1800年を過ごしてきている。