日本における食人事例

ああ、【当代江北日記】が非公開になってしまった。いつも読むのを楽しみにしてたのに…。なかでも最近の記事で面白かったのは、日本における食人の記録を南方熊楠が収集していたというもの。このまま消失してしまうのはあまりに勿体ないので、ここにGoogleのキャッシュからサルベージしてみる。コメント欄は削除しました。さすがに著作権法上に問題があるので、【ボクシング愛にあふれた日記】の方へ、お伺いトラックバック……を送ろうと思ったけど適当なエントリがないのでリファラリファラリファラ

2005-06-18
■ 「食人」―熊楠のチャレンジ

ところで、「食人」はどうして我々をこのように惹き付けるのだろうか。冒頭にリンクしたswan_slabさんは次のように言っている。

食人に対する関心を向けている私たちは、ただ単に穢れた習俗を忌避するというものではない。なかには、中国人をよりはっきりくっきりと嫌いになろうというアピールのために、わざわざ関心を持っている人もいるかもしれないが、食人そのものに対してはもう少しアンビバレントな感情を私たちは抱いているのではないだろうか。

食人を野蛮な習俗と考える私たちは、おぞましさと同時にプリミティブなものへの奇妙な憧憬のまなざしを向けることがある。非日常的なものとの出会いによって目を背けたくなるほどの恐怖とどうしようもなく惹きつけられる好奇心・歓喜を同時に体験しているのだ。

僕もだいたい同じような考えを持っている。

ところで、桑原先生がこの論文を書いたのはなぜだろうか。彼は次のように語っている。

日支兩國は唇齒相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。日支の親善を圖るには、先づ日本人がよく支那人を理會せなければならぬ。支那人をよく理會する爲には、表裏二面より彼等を觀察する必要がある。經傳詩文によつて、支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが、同時にその反對の方面をも、一應心得置くべきことと思ふ。食人肉風習の存在は、支那人に取つては餘り名譽のことではない。されど儼然たる事實は、到底之を掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦、支那人を理會するに無用であるまいと思ふ。

桑原隲藏「支那人の食人肉風習」(青空文庫より)

支那人間に於ける食人肉の風習」にも同じ文章が記されている。つまり、究極的には「日支親善」のため、ということであるが、「支那人間に於ける食人肉の風習」には、また、別の角度からこの問題を捉えていることをうかがわせる文言がある。

兎に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確証が見当らぬ。まして、嗜好の為め、憎悪の為め、人を啖った事実の見当らぬのは申す迄もない。太田錦城が、日本では神武開国以来、人が人を食ふこと見当らざるは、我が国の風俗の淳厚、遠く支那に勝る所以として自慢して居るが(『梧窓漫筆』後編上)、この自慢は支那人と雖ども承認せねばなるまい。

ここにあるのは食人=不道徳、野蛮であり、日本人はそんなことをするはずがないという考えである。

こうした考えは当時の日本では広くあったようである。こうした考え方に真正面からチャンレンジしたのが南方熊楠である。彼の、英語で書かれた未公表の論文が翻訳されて、雑誌『文学』1997年1月号に載せられている#1。

そこに掲載された事例をいくつか挙げてみよう。

(18世紀のこと)江戸は芝に一人の僧がいた。死んだ女性の死化粧を行う際、髪を刈ろうとして過って頭の一片を切り落としてしまった。親族に気づかれるのを避けようとして、その肉片を口に入れたところ、人の死肉を食う癖がついてしまった。そして、その後夜々、自分の管理下にある墓地に葬られた死骸を掘り出して食うのをこととした。

(『新著聞集』第十 奇怪篇)

1159年の最初の月、国土は異常な疫病と極端な旱魃によ天災を被った。当時首都であった京都の街中には、死骸の上に乗ってその肉を食らう十五、六の若い尼が現れた。

(『五代帝王物語』)

16世紀、伊藤氏の侍が語ったところによると、ある時、退却中に飢えに襲われ、一人の敵が食事をしているのを見て、それを殺し、その腹を裂いて中の食料を取り出して、川で洗って食った。

(『常山紀談』巻之十三「伊藤金左衛門」の項)

我々は未だかつて聞いたこともないような状況に置かれている。賎民たちは犬、猫、牛、馬の肉を食う。甚だしきは、死者の肉を切り取って食い、格別にうまいとさえ言う。人がこれほど凄惨な状況に堕するとは、ほとんど信じがたいことである。

(『兎園会集説』九節)

三河の百姓の妻が嫉妬から悪鬼に憑かれ、焼き場に奔り、生焼けの死体を取り出して、はらわたを木の器で、ちょうど蕎麦でも食うように食べた。あまりのことに驚愕するまわりの人々に「こんなに旨いものをどうして食べないのか」と尋ねてから、走り去った。以後行方知れずである。

(熊楠は出典を『東遊記』としているが、松居氏によると現行版では見つからず、不詳とのこと)

平貞盛は、自分を苦しめていた皮膚病の治療のために、息子の妻が妊娠した際に腹を裂き、胎児を取り出して自分に供することを切望した。息子の方は、父の侍医に賄賂を贈って、自分の血を引く胎児では治療の効果がないこと、そして妻の腹の中の子供が薬用に必要な男児であるかどうかわからないことを口実に説得を行い、この凶々しい要求をやめさせることに成功した。その結果他家の妊娠した女性が二人、腹を裂かれ、一人の男の胎児が供されて貞盛の皮膚病を癒したという。

(『今昔物語集』巻第二十九「丹波平貞盛取児干語第二十五」)

また大坂にて大谷紀之助といふ者、悪瘡に罹りしが、千人の生血を舐めなば全治すべしといふことを信じて、市中に千人切をなして、刑せられたることあり。

藤岡作太郎・平瀬鏗三郎『日本風俗史』中編一六一頁)

熊楠は次のような例も紹介している。

(太閤秀吉による1580年の鳥取と三木の城攻めの際)籠城勢は、穀物が尽き、馬や牛の肉に頼らざるを得なくなった。しかしそれも尽きたので、しかたなく死者の肉をくらい始めたのだが、その際、親族の肉を他人に回さないように非常に気を使った。そこで現れたのは、兄弟の肉、父の肉を食って命をつなぐ人々の筆舌に尽くしがたい光景であった。

(『群書類従』合戦部 豊鑑)

これには註釈がついており、そこでは

この最後の一節は、「人々は子を取り替えて食った」という中国の記録#2とはまったく正反対である。……ともあれ、この対比が示しているのは、同じような状況で非常な困難に直面した人間の精神が、時には対照的な二つの行動に帰結する場合があるということである。

と、述べられている。熊楠にはどちらが優れているかとか、そういう発想がなかったようである。松居氏は「熊楠の『食人論』における文化相対主義的な視点はやはり際だったところがある。ここで熊楠は、食人を倫理的水準の問題とすることなく、学問分析の俎上に乗せようとしている」と評している。


ところで、熊楠がこの論文を執筆したのは1903年ごろだという。海外の雑誌に投稿したところ採用されず、眠っていたが、1915年に寺石正路『食人風俗志』の補足として発表される可能性が出た。しかし、結局それもなくなった。これは日本人の食人風習を証明するという試みが、『食人風俗志』によって一定の効果を挙げたから、と考えられている。

然るに、桑原先生の論文が書かれたのが1924年のことであるから、そうなると、「兎に角日本人が飢饉の場合、籠城の場合に、人肉を食用したといふ確証が見当らぬ」という桑原先生は『食人風俗志』を参照しなかったのだろうか。当時、歴史学文化人類学など他分野の知見を借りるなどということはなかったのかもしれない。

#1:松居竜五南方熊楠の食人論」 の付録であり、翻訳も松居氏による

#2:例えば『列子』説符篇に「楚攻宋囲其城。民易子而食之。」とある。

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ここに挙げられている大谷紀之介の事例ですが、千人斬りの風聞があったことは事実なのですが、「刑せられたる」という点においては誤りです。この人は石田三成と親交があり、関ヶ原に西軍として参戦し、そこで戦死しています。

また、鳥取城の事例について、太田牛一の『信長公記』(『豊鑑』より史料的価値が高い)は次のように記述しています。

今度、因播国とつ鳥一郡の男女、悉く城中へ逃入り楯籠候。下々百姓已下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。初めの程は五日に一度、三日に一度、鐘をつき、鐘次第、雑兵悉く柵際迄罷出で、木草の葉を取り、中にも稲かぶを上々の食物とし、後には是も事尽き候て、牛馬をくらひ、霜露にうたれ、弱き者は餓死際限なし。餓鬼のごとく痩衰へたる男女、柵際へ寄、〓焦(もだへこがれ)、引出し扶け候へとさけび、叫喚の悲しみ、哀れなる有様、目も当てられず。鉄炮を以て打倒し候へば、片息したる其者を、人集まり、刀物を手々に持て続節を離ち、実取り候キ。身の内にても、取分け頭能きあぢはひありと相見へて、頸をこなたかなたへ奪取り、逃げ候キ。兔に角に命程強面(つれなき)物なし。然れ共、義ニ依ツテ命ヲ失フ習ひ大切なり。城中より降参の申し様、吉川式部少輔・森下道祐・日本介、三大将の頸を取進すべく候間、残党扶け出され候様にと侘言申候。此言、信長公へ伺ひ申さるゝ処、御別義なきの間、則、羽柴筑前守秀吉同心の旨、城内へ返事候の処、時日を移さず腹をきらせ、三大将の頸持ち来り候。
十月廿五日、取鳥籠城の物扶け出だされ、余りに不便に存知られ、食物与へられ候へば、食にゑひ過半頓死候。誠に餓鬼のごとく痩衰へて、中々哀れなる有様なり。取鳥相果て、城中普請掃除申付け、城代に宮部善祥坊入置き訖。

死者の肉ではなく、まだ息のある人間の関節を切り取り、とくに頭がうまいということで互いに奪い合ったということです。

9月2日追記

そういえば『さんまいのおふだ』という絵本もあるじゃないですか。これも食人をあつかった童話ですよね。この絵本の作者は松谷みよ子さんということですが、もともと新潟県に伝わる昔話だったそうです。土佐民話にも類似する話があるようです。

ふと思い立って、いま【怪異・妖怪伝承データベース】で検索してみたら、次のような伝承が見つかりました。このほか動物かなにかに人が食われたという話もありました。日本にも古くから人食いのタブーがあったことが分かります。

人喰人
裸ではいつくばり、空腹を満たすためにさとうきび畑へ入っていく異人。「人喰人(チュトリモン)」だと思ったが、唐国の者で、難破をして島へ流れ着いたのだった。
児喰の弥陀
広徳寺の阿弥陀如来は子供を食べたので、住職に首を挿げ替えられた。
人喰娘
金持ちの娘が、夜、婿が床に入ると、生々しい赤児の手足を砂鉢に入れて出してきた。婿は驚くが、実はそれはお菓子で、読経試しをしていたのだった。

というか

わざわざ昔話から掘り起こさなくても、現代でもちゃんと食べてますよね(何度かリロードしなければ繋がらないかも知れません)。

2006年1月20日追記

上の発言小町が削除されたようなので、【小鳥ピヨピヨ】の記事にリンク。