龐統は左遷されたか

むかし2chで「龐統は治中・別駕にしてもらえず、南郡功曹から耒陽令へ左遷された」という発言を見かけたことがありましたけど、それは通常の昇進人事であって決して左遷ではないよというお話です。

まず『後漢書』百官志から俸禄を調べてみました。県令の方が高給取りです。

州刺史:六百石。
別駕従事史:百石。
治中従事史:百石。

郡功曹史:百石、または四百石。

大県令:千石。
次県長:四百石。
小県長:三百石。

後漢書』『三国志』『晋書』より、郡功曹から県令・県長に昇進した例を拾ってみました。私が適当に探して見つけたもので、実際にはもっと多くの事例があるはずです。

後漢書』杜詩伝
杜詩は郡に仕えて功曹となり、公平さを称えられた。更始帝の時代、大司馬の役所に召し出された。建武元年、一年のうちに三たび昇進して侍御史となり、のちに成皋令を拝命した。
後漢書』法雄伝
法雄ははじめ郡に仕えて功曹となり、太傅張禹の役所に召し出されて高第に推挙され、平氏長に叙任された。善政を敷いたので人々は彼を畏敬し、南陽太守鮑得がそれを報告したので、宛陵令に昇進した。
後漢書』第五倫伝
第五頡は郡功曹、州従事となり、三公の役所に召されて高第に推挙され、侍御史、南頓令、桂陽・南陽・廬江太守、諫議大夫になった。
後漢書』鍾皓伝
鍾皓は郡功曹となり、前後して九回も三公の役所に召し寄せられ、廷尉正・博士・林慮長として徴されたが、いずれにも就任しなかった。
後漢書』第五訪伝
第五訪は郡に仕えて功曹となり、孝廉に推挙され、信都令に補任された。
後漢書』許慎伝
郡功曹となり、孝廉に推挙され、二度の昇進で洨長に叙任された。
後漢書』王忳伝
郡に仕えて功曹となり、州の治中従事を経て、茂才に推挙され、郿令に叙任された。
後漢書』袁渙伝
郡の辞令により功曹となり、のち三公の役所に召されて高第に推挙され、侍御史に昇進した。譙令に叙任されたが就任しなかった。
三国志』張既伝
はじめ張既が郡の小役人だったころ、功曹の徐英はいつもその手で張既を三十回もむち打っていた。徐英は建安年間のはじめ蒲阪令になった。
三国志』和洽伝
徐璆は汝南太守に赴任したとき、許劭の名声を聞いて、頼み込んで功曹になってもらった。許劭は三公の役所から掾として召されたり、鄢陵令を拝命したり、方正として徴されたりしたが、いずれにも就任しなかった。
三国志楊戯
李朝は郡功曹であり、孝廉に推挙されて臨邛令となり、中央入りして別駕従事になった。
『晋書』甘卓伝
甘卓は郡の辞令により主簿・功曹となり、孝廉に推挙された。州は秀才に推挙した。東海王司馬越に招かれて参軍となり、出向して離狐令に補任された。

県令・県長になったあと郡功曹になったのは、いちど官職を去ってから復職した場合です。

後漢書』曹褒伝
曹褒ははじめ孝廉に推挙され、二度の昇進で圉令になった。免官されて郡に帰り、功曹になった。
後漢書』趙岐伝
趙岐は皮氏長になったが、宦官の兄が太守になったのを恥ずかしく思い、その日のうちに帰郷した。京兆尹延篤によってふたたび功曹になった。

よって、郡功曹<県令・県長といえます。

ちなみに、功曹が県令・県長を兼務するケースもありました。

三国志』王脩伝
孔融が王脩を召しだして主簿とし、高密令を兼務させた。また功曹に任じて膠東令を兼務させた。
三国志』杜畿伝
杜畿は二十歳のとき郡功曹となり、鄭県令を兼務した。
三国志虞翻
丁覧は郡に仕えて功曹に昇り、始平長を兼務した。

さて、県令・県長と治中・別駕とではどちらが高位だったのでしょうか。まず治中・別駕から県令・県長に移ったケースを見てみましょう。

後漢書』王忳伝
郡に仕えて功曹となり、州の治中従事を経て、茂才に推挙され、郿令に叙任された。
三国志袁紹
沮授は州に仕えて別駕となり、茂才に推挙されて二つの県令を歴任し、また韓馥の別駕になった。
三国志』王脩伝
王脩は袁譚に召し出されて治中従事となった。袁紹が王脩を招いて即墨令に叙任し、のちにまた袁譚の別駕となった。
三国志劉曄伝・蔣済伝
蔣済は出仕して郡の計吏、州の別駕になった。曹操に拝謁して県令となり、温恢が揚州刺史になると別駕になった。
三国志陳羣
劉備が予州に赴任すると陳羣を招いて別駕とし、劉備が敗北したあと、茂才に推挙され、柘令に叙任されたが就任しなかった。のちに蕭・贊・長平令に叙任された。
三国志』胡質伝
胡質は州郡に仕えて蔣済の別駕となり、曹操に会って頓丘令になった。
『晋書』江逌伝
江逌は試験任用として太末令となり、朝廷のお褒めにあずかった。州に招かれて治中となり、別駕に転任、呉令に昇進した。

それでは、逆に、県令・県長から治中・別駕になったケースはあるでしょうか。

三国志袁紹
沮授は州に仕えて別駕となり、茂才に推挙されて二つの県令を歴任し、また韓馥の別駕になった。
三国志』王脩伝
王脩は袁譚に召し出されて治中従事となった。袁紹が王脩を招いて即墨令に叙任し、のちにまた袁譚の別駕となった。
三国志劉曄伝・蔣済伝
蔣済は出仕して郡の計吏、州の別駕になった。曹操に拝謁して県令となり、温恢が揚州刺史になると別駕になった。
三国志』崔林伝
崔林は曹操に召し寄せられて鄔長になり、抜擢されて冀州主簿となり、別駕に異動した。
三国志馬忠
馬忠は孝廉に推挙され、漢昌長に叙任された。のちに丞相参軍となり、州の治中従事を兼任した。
三国志楊戯
李朝は郡功曹であり、孝廉に推挙されて臨邛令となり、中央入りして別駕従事になった。
三国志』潘濬伝
潘濬は湘郷令となり統治ぶりは評判であった。劉備荊州を領有すると、潘濬を治中従事とした。
『晋書』江逌伝
江逌は試験任用として太末令となり、朝廷のお褒めにあずかった。州に招かれて治中となり、別駕に転任、呉令に昇進した。

なるほど、県令・県長から別駕になるケースもあるし、別駕から県令・県長になるケースもあるようです。そうすると、県令・県長≒治中・別駕といえそうです。

ちなみに、別駕従事として県令を兼務した例もありますよ。

三国志』閻温伝
閻温は涼州別駕として上邽令を兼務した。

こうして見ると、郡功曹が治中・別駕ではなく県令・県長へ異動したとしても、左遷でもなんでもないことが分かると思います。

ところで、私の手元にある筑摩書房の『三国志』訳本では、龐統が耒陽令になった経緯を次のように書いています。原文と一緒に提示してみます。

(訳文)先主は荊州の治政を握ると、龐統に従事のまま耒陽の令を代行させた。
(原文)先主領荊州,統以從事守耒陽令.

私が思うに、これはあまり妥当な訳ではないと思います。「守」というのは代行ではなく、兼務することです。それに、ここでは前段を承けて「従事」を南郡の功曹従事のことだとしか解釈しようがありませんが、もし本当に南郡の功曹のまま据え置かれているのだったら、桂陽郡の県令なんか兼務(も、代行も)できっこありません。これは荊州の従事に任命し、同時に耒陽令を兼務させたという意味です。ここでいう従事とは、おそらく荊州の部桂陽郡従事のことでしょう。もし私だったら、「先主が荊州を領有すると、龐統は従事として耒陽の県令を兼務した」と訳したいところです。

つまり、龐統は左遷されてません。