曹操は光武帝をパクった

三国志武帝紀および注
(原文)公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之.魏氏春秋曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況衆人乎!」
(訳文)公は袁紹の文書を回収し、許の城下および軍中の人々の書状を手に入れたが、みなそれを焼き捨てた。『魏氏春秋』に言う。公は言った。「袁紹の強大さにぶつかったときは、私でさえ自信を保てなかった。まして衆人ならばなおさらだ!」

はい、おなじみのエピソード。でも、これは後漢光武帝(劉秀)のパクリ。

後漢書光武帝
(原文)五月甲辰,拔其城,誅王郎.收文書,得吏人與郎交關謗毀者數千章.光武不省,會諸將軍燒之,曰:「令反側子自安.」
(訳文)五月甲辰、その城を陥落させて王郎を誅殺した。文書を回収し、役人たちが王郎と交換した誹謗中傷の文章数千通を手に入れた。光武は見ることなく、諸将を集めてそれを焼き捨て、「不安げな諸君を安心させてやるのさ」と言った。

三国志』趙儼伝の注に引く『魏略』によると、曹操袁紹の記録所を捜査させたところ、李通の文書だけが見当たらなかった、とある。裴松之も指摘しているように、文書を見ないで焼き捨てたとする武帝紀の記述とは正反対であるが、どちらが正しいのだろうか。おそらく『魏略』が正しく、曹操袁紹と諸将との文書を検閲していたのだろう。『三国志』や『魏氏春秋』は光武帝のエピソードを盗用して曹操を美化しているのである。

追記

『東観漢記』光武帝
(原文)漢兵破邯鄲,誅郎。入王宮收文書,得吏民謗毀公言可擊者數千章,公會諸將燒之,曰:「令反側者自安也。」
(訳文)漢軍は邯鄲を打ち破って王郎を誅殺した。王宮に踏み込んで文書を回収し、官吏民衆が公を誹謗して「撃つべし」と述べる文章数千通を手に入れた。公は諸将を集めてそれを焼き捨て、「不安げな連中を安心させてやるのさ」と言った。

後漢紀』
(原文)五月甲辰,破邯鄲,誅王郎。公得文書,謗毀公者皆燒之,曰:「令反側子自安也。」
(訳文)五月甲辰、邯鄲を打ち破って王郎を誅殺した。公は文書を手に入れたが、公を誹謗するものは全部焼き捨て、「不安げな諸君を安心させてやるのさ」と言った。