烏林戦の顛末

烏林の戦いといえば、なぜか呉側の立場で書かれた『江表伝』くらいにしか詳しい記述がないのですが、魏側では珍しく『英雄記』が比較的詳細に書いてます。

『太平御覧』所引『英雄記』
曹操は軍勢を進めて長江のほとりに着くと、赤壁から長江を渡ろうと思った。船がなかったので、竹で筏を作り、部曲らをそれに載せた。漢水沿いに川をくだり、長江の注浦口に出たが、すぐには渡ろうとしなかった。周瑜は夜中、ひそかに軽船・走舸一百艘をやって筏を焼かせた。曹操はそのため夜中に逃走することになった。

『太平御覧』所引『英雄記』別の箇所での引用。
周瑜は江夏を守っていた。曹操赤壁から長江南岸へ渡ろうと思ったが、船がなかったので筏に乗り、漢水沿いに川をくだって浦口に着いたが、すぐには渡ろうとしなかった。周瑜は夜中、ひそかに軽船・走舸一百艘あまりをやり、一艘ごとに五十人が棹をあやつり、一人ひとりに松明を持たせた。松明を持つものは数千人、船のうえに立たせて行列を集めさせた。火を放たせ、燃えうつると、すぐに船を返して逃げかえった。たちまち数千艘の筏に火がつき、炎は天空をてらした。曹操はそのため夜中に逃走することになった。

曹操荊州水軍を接収してこれを動員したと一般的に考えられてますが、これによると、荊州軍を用いてないか、あるいは用いてなお戦力が不足していたことが分かります。竹筏を建造して漢水を下ったはいいものの、漢水と長江の合流点にあたる夏口城に周瑜が詰めていたため渡ることができず、立ち止まったところを周瑜に攻撃されたということです。つまり、赤壁の敗因は、夏口城の目前で停滞したからであり、なぜ夏口城にぶつからねばならなかったかといえば、江陵から長江を下るのではなく襄陽から漢水を利用して下ったからだ、ということになります。これは曹操の戦略上のミスでした。長江を渡って呉軍を背後から脅かすのであれば、江陵の船に乗って長江を渡るべきです。それなのに、襄陽の船を使って漢水を下ったために、長江への出口にあたる夏口城を周瑜に固められて、渡るに渡れなくなってしまいました。

なお、赤壁の戦闘と、南郡での対峙は別物として、分けて考えるべきです。曹操が疫病の流行を理由に撤退を決断したのは南郡(江陵)の城内においてです。

三国志武帝紀注引『山陽公載記』
公は艦船を劉備に焼かれたため、軍勢をまとめて華容道から徒歩で引きあげた。ぬかるみにぶつかって道路が普通であったうえに、風の強い季節である。

『太平御覧』所引『英雄記』
曹公が赤壁で敗北したおり、雲夢の大沢まで行ったところで濃霧に出くわし、道路を見失い迷ってしまった。

三国志』先主伝
曹公と赤壁において戦ってこれを大破、その艦船を焼きはらった。先主は呉軍とともに水陸両道から一斉に進撃し、南郡まで追いあげた。そのとき疫病の流行により北軍では多くの死者を出したため、曹公は引きあげた。

三国志孫権
劉備とともに進撃し、赤壁で遭遇した曹公の軍勢を大破した。公は残りの船を焼きはらって引きあげたが、兵士たちは飢えたり疫病にかかったりして大半が死んだ。劉備周瑜らがさらに南郡まで追撃すると、曹公はとうとう北方に引きはらった。

三国志周瑜
黄蓋はいくたの船を散開させて一斉に放火した。このとき風が狂ったように吹きあれ、陸上の陣営にまで完全に延焼した。しばらくすると炎や煙が天空に満ち、人馬で焼死したり溺死したりするものは非常に多かった。軍はとうとう敗退して、南郡に立てこもった。劉備周瑜らとともにさらに追撃した。曹公は曹仁らを江陵城の守りに残し、自分はまっすぐ北方へ帰っていった。

赤壁で敗退したため、徒歩で雲夢沢を抜けて、改めて南郡に布陣する、というのが曹軍の全体的な流れです。赤壁の戦勝で、周瑜は大いに曹軍の出鼻をくじいたと言えますが、まだまだ決定的な勝利を固めてはいません。その後も両軍は江陵城でにらみあいを続け、まだどちらが勝つとも知れない状況でした。もともと曹軍では疫病が発生していましたが、雲夢沢に踏みいれたことでその流行にいっそう拍車をかけたでしょう。しばらくして、曹操は、疫病の流行のため撤退を決めます。ですから、曹軍の直接的な敗因は、赤壁の頓挫ではなく、疫病の流行であると言えます。しかし、赤壁敗退で士気が低下したことが疫病の流行を促進した可能性も考えられますし、そもそもこのように衛生的でない湿地帯に踏み入れなければならなかったのも赤壁を維持できなかったからだと考えられるので、やはり周瑜赤壁夜襲が勝利を決めたという評価もできます。