華嶠の王允論

わたしも自分で『董卓伝』を訳してみるまで気付かなかったのですが、

ちくま『三国志董卓伝注引華嶠王允
華嶠はいう。そもそも士たる者は、正義をもって世に立ち、策謀をもって事をなし、道義をもってわが身を完成するものである。王允董卓を推挙してみずからの権限を分譲しながら、その隙をねらってその罪を糾弾したようなことが、これに該当する。その当時において、[一時的にもせよ]天下の人々の苦難は解消した。その行為の根本をさかのぼると、すべて忠義を中心としていた。だから、董卓を推挙しても正義を失ったことにならず、権限を分譲しても道義にはずれたことにならず、隙をうかがっても陰謀を用いたことにならないのだ。その結果、策謀は成功し、道義は完成して、正義へ行きついたのである。

これって、ちょっとおかしいですよね。王允董卓を推挙する立場にありませんし、自分の権限を分譲することもできません*1。もしそうだったとしても、なぜ自分の権限を他人に分けあたえたことを華嶠が擁護するのでしょう。理由がありません*2

ほんとうは、たぶん、逆です。

王允董卓を推挙してみずからの権限を分譲しながら…
王允之推董卓而分其權...)

この部分、ちくまの訳文では主客が転倒してます。

「推」は推挙ではなくて推戴で、王允董卓を君主として仰いだという意味です。「其」は董卓で、王允董卓の権力の一部を奪いとったという意味です。おそらく華嶠の時代、董卓のような逆臣に服従して悪事に手を貸すのは不義である、仮にも主君として仰いだ相手から権力を奪いとるのは不忠だ、といった王允批判があったので、華嶠は『王允伝』を書いて反論しているのです。

「たしかに逆臣に仕えるよりもさっさと隠棲してしまったほうが清潔な生き方かもしれない。しかし、それならば一体、だれが董卓を誅滅するのか。董卓の国家簒奪を黙って見ていろというのか。それよりも、董卓の隙をうかがって誅殺するほうがよい。王允董卓に心服したふりをしたのは董卓を油断させるためだし、権力を奪いとったのは誅殺計画を進めやすくするためだ。いっけん不忠不義のようにも見えるが、実は国賊を誅滅して朝廷を守護するという大義を行うためにやったこと。王允への批判は当を得ていない。」

と、華嶠は言いたかったんだと思います。

*1:王允は人事を担当する尚書令に在職していたので、董卓に大臣の座を与えたのは王允であると、ちくまの訳者は解釈しているのだろうと思います。

*2:君主ならぬ身でありながら私恩を施すのは部下を取りこもうとしているのだ、という批判に対応するものだと、ちくまの訳者は解釈しているのでしょう。