鄧艾は見込みを外した

三国志』鄧艾伝によると、姜維が剣閣に立てこもって魏軍の侵入を阻んだとき、鄧艾は次のように上奏している。

陰平から漢徳陽亭を経由して涪へ行き、剣閣の西方百里に出れば成都まで三百里あまり。剣閣の守備兵はかならず涪へ引きかえします。もし引きかえさなければ涪の兵士は少数なので、かならず撃破することができます。

剣閣を突破するためには涪への奇襲が有効、という主旨。

しかし実際には、陰平から涪を通りすぎ、そのまま緜竹へ行って諸葛瞻を破り、さらに雒まで進軍したところで蜀主劉禅の降服を受けいれ、成都に入城している。その間、剣閣は落ちていない。鄧艾は見込みを外したと言うべき。

涪を撃破するというのは見込みを外したときのためにエクスキューズで入れた文句にすぎないので、これを根拠に鄧艾の見込みどおりだと考えてはいけない。ところがそのエクスキューズ用の想定が実現しちゃったものだから、さすがの鄧艾も涪城に入ってから唖然としてたんじゃないかな。

9月24日

訒艾は江油を抜き、四川盆地に侵入すると、緜竹において諸葛瞻を撃破し、そのまま進んで雒城に入った。
姜維は諸葛瞻敗死の報告を受け取ると、後方の状況が不明だった為、剣閣を放棄して撤退を開始。巴西へと迂回しながら成都への道を急いだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/36574045.html

こういう解釈もありうるんだなぁ。ちなみに姜維伝の原文、

而鄧艾自陰平由景谷道傍入,遂破諸葛瞻於緜竹.後主請降於艾,艾前據成都.維等初聞瞻破,或聞後主欲固守成都,或聞欲東入吳,或聞欲南入建寧,於是引軍由廣漢﹑郪道以審虛實.尋被後主敕令,乃投戈放甲,詣會於涪軍前,將士咸怒,拔刀砍石.

「初」「於是」をどう考えるのかが解釈の枝道。わたしはこう読んだ。まず鄧艾が後主を降して成都を占拠。そのあとで姜維は、かつて諸葛瞻が敗れたとき(初)さまざまな風聞のあったことを思いだし、成都陥落を聞いた時点(於是)で真偽を確かめるために後退した。ジョミニの人はたぶん、真偽を確かめるために後退したのを諸葛瞻が敗れた時点(於是)のことと解し、それはすなわち、後主が降服する以前(初)と見ている。戦況から考えると後者の解釈のほうがスムーズなんだけど、それにしては言いまわしが素直でない感じ。それだと「初」も「於是」もあまり必要でなくなってしまう。

などと思いつつ鍾会伝のほうを見たら、

維等聞瞻巳破,率其眾東入于巴.會乃進軍至涪,遣胡烈﹑田續﹑龐會等追維.艾進軍向成都,劉禪詣艾降,遣使敕維等令降于會.維至廣漢郪縣,令兵悉放器仗,送節傳於胡烈,便從東道詣會降.

とあって、諸葛瞻が敗れたとき巴郡へ向かい、鄧艾が成都を落としたあと、広漢で降服命令を受けとったことになっている。鄧艾が涪を踏破してなお剣閣が降らなかったことには違いないとしても、緜竹が敗れた時点では剣閣から引きあげているわけだ。緜竹へ直行せず東の巴郡へ迂回してから広漢に戻ってきた理由がよく分からないが、巴西で無傷の軍兵を集めて侵攻軍に抵抗を挑もうとしたのであれば、風聞の真偽を確かめるために広漢へ戻ったとする姜維伝よりも、説得力はある。

この時点で、侵攻軍の最大の弱点は補給であって、劉禅が中央軍を率いて成都に立てこもり、姜維巴西の軍兵をまとめて各所の要害に拠りつつ、侵攻軍の補給線をゲリラ的に脅かしたならば、鍾会は剣閣を前にして補給困難により撤退を考えていたほどなのだから、漢中や剣閣、涪の物資を手に入れたとしても、魏は十数万もの大軍を維持できなかった可能性もある。それは、かつて劉備の侵攻に対して鄭度が唱えた策略と同じである。緜竹の陥落を聞いても希望を捨てなかった姜維が、成都の陥落を聞いて悔しがったのは、成都に魏軍を給養できるほど大量の軍糧が蓄えられていたからではないだろうか。それだけ豊富な物資を抱えながら、あっさりと降服を決めてしまうのも、やはり劉璋の再現である。