下邳の陳氏

陳瑀は、太尉陳球の子である。陳球の弟の子(陳瑀の従弟)が陳珪、陳珪の子が陳登にあたる。

袁術は陳瑀を揚州刺史としたが、封丘で敗れたあと、陳瑀が反抗したためこれを追放した。

袁術は揚州を占拠すると、陳瑀の従弟である陳珪を味方に引きいれようとしている。袁術は陳珪の子・陳応を人質にとったが、陳珪はそれでも拒絶した。

陳瑀を刺史に任命したのは袁術だし、また陳珪(おそらく陳瑀も)はともに三公の子弟ということで若いころから袁術と交流があったという。はじめは親密であったのに、陳瑀も、陳珪も、のちには袁術と敵対関係になってしまった。なぜだろうか。

この陳氏の去就は、徐州から揚州にかけての政治的状況を大きく左右しているはずだが、あまり注目されてないようだ。

陳珪は袁術の招きを拒んだとき、「曹将軍は神のごとき武勇でもって時期に応じておられる」と言っている。曹操はかつて袁術に近い立場にあったが、のちに袁紹方に寝返っている。陳瑀らが袁術から離反したのも、その去就に連動していると思われる。

袁術が陳応を人質にとったとき、陳応は故郷の下邳にいた。下邳はすでに袁術の勢力圏に落ちていたのである。ときの徐州牧は陶謙である(下邳相は笮融か)。袁術と共闘関係にあったことが窺われる。陶謙は領内にいる陳応を袁術に売りわたしたのだ。陳氏は領主陶謙を恨んだであろう。

陶謙が病死したとき、陳珪の子・陳登は「袁術は傲慢であり乱世を治める君主ではない」として劉備を擁立している。そして劉備は、徐州を領すると袁紹に服属した。徐州はもともと袁術の勢力圏であったが、陶謙から劉備に代替わりする過程で、袁術から袁紹に鞍替えしたのである。それを支えたのが陳氏であった。