陳琮

袁術が寿春に迫ったとき、揚州刺史陳瑀は弟・陳琮を和睦の使者としている。

後漢書』陳球伝によると陳琮は汝陰太守まで昇ったとある。汝陰といえば汝南郡に属した県名であるが、おそらく一時期、汝南郡の一部が分割されて汝陰郡が立てられていたのだろう。陳琮が汝陰太守に在任した時期はよく分からないが、兄・陳瑀が袁術と対立していたころとすれば面白い。汝陰は汝南の東、沛国の南、九江の西にあり、袁術が陳留から寿春に向かうには、ちょうど通り道にあたっている。

寿春の揚州刺史が陳瑀、沛相が陳珪、汝陰太守が陳琮である。少しのちには陳登が広陵太守となる。