光武帝紀20 「反乱 相次ぐ」

光武帝劉秀の快進撃もここにきて若干の停滞を見せます。彭寵、劉楊、鄧奉らが相次いで反乱を起こして劉秀も苦戦させられます。また、二十八将の一人であり、劉秀を輔佐しつづけてきた耿純が、ついに別れをつげて劉秀のもとを立ち去ります。


建武*1二年*2の正月、甲子*3元日、日食があった。『東観記』*4の五行志*5は言う。「日は陽気の元素からなる君主の象徴である。君主の道義が損なわれると日食が起こる。諸侯が従順であるときは王者となり、諸侯が権力をほしいままにすると日に現れる。このとき傾きが十度あって斉*6の方角を示しているのは、張歩*7が従順でないことの現れである。」

功績のあった二十人を諸侯に取りたてた。鄧禹*8は梁侯*9に栄転させ、呉漢*10は広平侯*11とし、それぞれ四つの県を領有させた。諸将は口々に希望する領地を言上したが、ただ景丹*12だけは櫟陽*13を申請し、丁綝*14も郷亭*15しか請求しなかった。劉秀*16は景丹に言った。「関東*17にはいくつも県があって、櫟陽は一万戸にも満たない。出世して故郷に帰らないのは、夜中に錦を着るようなものだぞ。」景丹は陳謝して受けとった。ある人が丁綝に言った。「人々はみな県を請求しているのに、なぜあなたは郷しか求めなかったのですか?」丁綝は言った。「むかし孫叔敖*18は領地をもらったとき、断固として痩せた土地を求めました。丁綝は能力も功績も少ないのですから、たくさんもらってよいものでしょうか!」

壬辰*19、宗廟*20社稷*21を洛陽*22に建立した。

漁陽*23太守*24彭寵*25・涿郡*26太守張豊*27が反逆した。むかし銅馬*28の残党がいたころ、劉秀は諸将を率いて追撃し、薊*29まで軍隊を進めたことがあった。彭寵は郊外まで出迎えて拝謁したが、たいそう不満を抱いた。劉秀がそれを知って幽州*30*31の朱浮*32に訊ねると、朱浮は答えた。「かつて呉漢が北方で兵士を徴発したとき、陛下は(彭寵に)お腰の剣を与え、さらに直筆の手紙を送り、主君に対するような態度を取られました。彭寵は陛下がお越しになったので、握手でもって出迎えに応えるような特別扱いを求めているのです。」

劉秀が「あなたと同じように待遇しているのに、なぜ特別扱いを求めているのだろう?」と訊ねると、朱浮は言った。「王莽*33が宰衡*34であったとき、甄豊*35が御前にあって朝から晩まで議論し、いつも『夜中の客人は甄長伯*36』と言っておりました。しかし王莽が即位すると、甄豊は遠ざけられて不仲となり、親子ともども処刑されたのでした。」劉秀は大笑いして言った。「そんなことなどするもんか!」

このとき朱浮は幽州牧でありながら年若く、業績もめざましいものがあった。州郡の名士や王莽時代の役人・長官を招聘し、すべて幕府に入れた。賢者に手厚いとの評判を得たかったからである。漁陽の役所の倉庫から大量の食糧を出して、貧民に支給した。彭寵は天下がまだ平定されておらず軍隊も動員されるのだから、役人を増やしたり食糧を消耗するのはまずいと考え、命令に従わないことがあった。朱浮は心のせまい性格だったので目尻を吊りあげ、法律を厳しくして彭寵を調査させた。

彭寵の方でも自分の功績をかさにかけ、群臣の中でも並ぶものなしと自負していた。三公*37になった呉漢や王梁*38を派遣したのが彭寵であったから、彭寵は「ならば私は国王が相当だろう。それなのにこの程度の扱いであるのは、陛下が私を忘れているからなのか?」と言っていた。そのころ北方の州は荒廃していたが、漁陽だけが安泰で、塩や鉄の蓄えもあり、彭寵は金銀財宝を買いこんでいた。朱浮がしばしば彭寵を告発したが、劉秀はそのつど漏洩させて彭寵に察知させ、恐怖心を与えようとした。

同年春、劉秀が使者をやって彭寵を召しよせると、彭寵は手紙を書いて朱浮と一緒に呼んでくれと要求した。さらに呉漢・王梁・蓋延*39に手紙を送り、「自分に落ち度はないのに朱浮から危害を加えられた」と主張した。劉秀は要求を呑まず、呉漢らも返信しなかった。彭寵が不安を覚えているところに妻が言った。「天下はまだ平定されておらず、四方の地域はそれぞれに英雄となっております。漁陽は大きな郡ですし、兵馬も最強です。どうして他人の告発を受けたくらいで、この地を捨て去ることがありますか!」彭寵が可愛がってる連中と相談すると、みな離反すべきだと勧めた。

劉秀は彭寵の従弟である子后蘭卿*40を派遣して説得させたが、彭寵はそのまま彼らを手元に置いた。そして軍隊を動員して反乱を起こし、朱浮を攻め、手分けして周辺の郡を攻撃した。上谷*41太守耿況*42が息子の耿舒*43に突騎*44を与えて朱浮を救援させたので、彭寵は撤退した。

劉秀の派遣した游撃将軍*45鄧隆*46が潞*47に布陣し、朱浮が雍奴*48に布陣し、互いに百里あまりの距離を取った。役人を使者として「朝晩にも彭寵を撃破してやりますよ」と戦況を報告させると、劉秀はたいそう心配しながら「布陣すべき場所を間違っている。戦いはきっと負けるだろう。お前が帰国したころには分かるだろう」と言った。彭寵は一万人あまりを潞の西方へ向かわせて鄧隆と対峙させると同時に、精鋭騎兵二千人を潞の南から河を渡らせ、鄧隆の陣営を襲撃させ、これを大破した。朱浮は遠くにいたので救うことができず、軍隊をまとめて退却した。役人が帰国して劉秀の言葉を伝えると、みんな千里眼だと言いあった。

真定王*49の劉楊*50が反逆を企てたので、耿純*51に節*52を持たせて劉楊を逮捕させた。耿純は命令を受けると、州郡への使者のふりをしつつ真定まで行って駅舎に宿泊した。劉楊は病気だと言って出てこず、耿純に手紙を送って、耿純の方から出向いてこさせようとした。耿純は「勅使として王侯や牧にお会いするのですから、こちらから参ることはできませぬ。無理をしてでもお越しください」と返信を書いた。

そのとき劉楊の林邑侯*53である弟の劉譲*54や従兄の劉紺*55は、いずれも一万人あまりの軍勢を抱えており、劉楊は自分たちの方が兵力もあるし、耿純の気持ちも穏やかであると思われたので、すぐさま役人たちを連れて駅舎に出向き、兄弟たちが軽装騎兵を率いて門外に待機した。劉楊は駅舎に入って耿純に会うと、(耿純は)礼儀と敬意をもって対応し、それから劉楊の兄弟たちを招きいれた。兄弟たちが入ってくると、耿純は門を閉ざして一人残らず処刑し、兵士を率いて出ていった。真定の者どもは怯えてしまい、行動を示すものはなかった。

耿純は京師*56に帰ってくると、こう陳情した。「臣*57はもともと小役人の家の子孫でしたが、大漢の復興と聖帝の偉業に立ちあい、地位は将軍、爵位は諸侯まで昇りました。天下はほぼ平定されましたので、臣は意欲の使い道がございませぬ。どうか試しに一つの郡を統治させてください。努力でもってお応えするつもりです。」劉秀は笑いながら「あなたは人々を統治することで、さらなる自己顕示をするつもりなのかい?」と言い、耿純を東郡*58太守に任命した。

耿純に詔勅を下し、軍隊を率いて泰山*59・済南*60・平原*61などの諸郡を攻撃させると、耿純はすべて平定した。東郡に在職すること数年、強者を抑制しつつ弱者を扶養し、命令すれば実行されるし禁止すれば停止されるようになった。後年、長吏*62を殺したことから罷免されたが、諸侯であるため春と秋が来るたびに参内した。

あるとき、劉秀が耿純をつれて東方遠征へ出かけ、東郡を通りがかったとき、百姓たちが老幼を問わず数千人も集まり、馬車にすがりつきながら泣き声をあげて「どうか耿君を残していってくだされ」と口々に言った。劉秀は公卿*63たちに「耿純は若いころから甲冑を身にまとう軍役人に過ぎなかったのだから、郡を統治させてこれほどの成果を出すとはどうして予測できただろうか?」と言い、官僚たちもみな感嘆した。

更始帝*64の諸将はほとんどが南陽*65に根を下ろしていたが、更始帝が死んだことや、劉秀が河北*66で挙兵したことを聞くと、みな軍隊を率いて反乱を起こした。劉秀が諸将をあつめ、檄文を地面に叩きつけて「郾*67が最強、宛*68がその次だ。だれに郾を攻めさせようか?」と言うと、賈復*69がすぐさま「臣が郾を攻撃したく存じまする」と即答した。劉秀は笑って言った。「執金吾*70どのが郾を攻撃するなら、わたしはもう心配がいらぬ。大司馬*71どのが宛を攻撃してくれ。」こうして賈復が郾を攻撃し、呉漢が南陽を攻撃することになったが、どちらも平定された。

呉漢は兵士どもを放って新野*72で略奪を働かせた。破虜将軍*73鄧奉*74は新野の出身だったので、呉漢が故郷を荒らしたことに腹を立て、軍隊を率いて反逆し、呉漢を襲撃して打ち負かした。

*1:けんむ。劉秀(りゅうしゅう)の建てた年号。

*2:西暦26年。

*3:こうし。きのえね。

*4:とうかんき。歴史書の書名。

*5:ごぎょうし。原文では「本志」とあり、これが『東観記』の五行志(五行意)と推測されている。

*6:せい。国名。

*7:ちょうほ。群雄の一人。

*8:とうう。二十八将の筆頭。

*9:りょうこう。梁を領地とする諸侯。

*10:ごかん。二十八将の一人。

*11:こうへいこう。広平を領地とする諸侯。

*12:けいたん。二十八将の一人。

*13:やくよう。県名。

*14:ていちん。

*15:きょうてい。郷と亭。いずれも行政単位だが県よりも小さい。

*16:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*17:かんとう。函谷関(かんこくかん)の東。

*18:そんしゅくごう。

*19:じんしん。みずのえたつ。

*20:そうびょう。劉氏の氏神を祀るところ。

*21:しゃしょく。天地の神々を祀るところ。

*22:らくよう。県名。劉秀が都とした地。

*23:ぎょよう。郡名。

*24:たいしゅ。官名。郡の長官。

*25:ほうちょう。群雄の一人。

*26:たくぐん。郡名。

*27:ちょうほう。

*28:どうば。盗賊集団の一つ。

*29:けい。県名。

*30:ゆうしゅう。州名。

*31:ぼく。官名。州の長官。

*32:しゅふ。

*33:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*34:さいこう。官名。

*35:けんほう。

*36:けんちょうはく。「長伯」は甄豊の字(あざな)。

*37:さんこう。三人の大大臣。

*38:おうりょう。二十八将の一人。

*39:がいえん。二十八将の一人。

*40:しこうらんけい。姓名の区切りがよく分からない。

*41:じょうこく。郡名。

*42:こうきょう。

*43:こうじょ。

*44:とっき。精鋭騎兵。

*45:ゆうげきしょうぐん。官名。

*46:とうりゅう。

*47:ろ。県名。

*48:ようど。県名。

*49:しんていおう。真定を領地とする国王。

*50:りゅうよう。

*51:こうじゅん。二十八将の一人。

*52:せつ。勅使に与えられる旗。

*53:りんゆうこう。林邑を領地とする諸侯。

*54:りゅうじょう。

*55:りゅうこん。

*56:みやこ。

*57:わたくし。臣下の一人称。

*58:とうぐん。郡名。

*59:たいざん。郡名。

*60:せいなん。郡名。

*61:へいげん。郡名。

*62:ちょうり。県の長官。

*63:くぎょう。大臣の総称。三公と九卿(きゅうけい)。

*64:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*65:なんよう。郡名。

*66:かほく。黄河北岸の平原地帯。

*67:えん。県名。

*68:えん。県名。

*69:かふく。二十八将の一人。

*70:しっきんご。官名。九卿の一つ。宮殿警備担当の大臣。ここでは賈復を指す。

*71:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。ここでは呉漢を指す。

*72:しんや。県名。

*73:はりょしょうぐん。破虜は「賊軍を打破する」の意。

*74:とうほう。