光武帝紀22 「帰参する者多し」
劉秀の即位以来、劉嘉、張歩、王常ら、各地方の大物がぞくぞくと劉秀に帰服します。この間、鄧禹の威信が失墜し、寇恂と賈復が内紛を起こし、王梁が命令違反を犯すなど、劉秀陣営もなかなかまとまりません。
鄧禹*1は上林*2へ軍隊を派遣するとともに、諸将をつれて高廟*3に参拝すると十二帝の祭神を洛陽*4に送りとどけ、境内を掃ききよめて役人や兵士を置き、雲陽*5に戻って食糧を調達した。漢中王*6の劉嘉*7と来歙*8が鄧禹のもとに降伏してきた。
劉嘉は字*9を孝孫*10といい、劉秀の族兄*11である。若くして父を亡くしたため劉秀の父である南頓君*12のもとで育てられ、実の子のように可愛がられた。斉*13の武王*14とともに長安*15へ遊学に出たこともあるが、劉秀とはもっと仲が良かった。劉嘉が漢中王となり南鄭*16を都としたとき、軍兵は数十万人もあった。南陽*17の延岑*18が武当*19で挙兵して数万人を集め、漢中のあちこちを攻撃しつつ南鄭を包囲したとき、劉嘉は戦いに敗れ、敗残兵とともに谷口*20へ逃れた。赤眉*21が廖湛*22に十万人あまりの兵士を与えて劉嘉を攻撃させると、劉嘉はこれを大破して廖湛を斬首し、そのまま雲陽まで来たのである。
劉秀はもともと劉嘉と仲が良かったので、つねづね招き入れようとしていたし、来歙もまた劉秀に帰服するようにと劉嘉に勧めたので、ようやく鄧禹のもとに降伏してきたのである。劉嘉は千乗*23太守*24・順陽侯*25に取りたてられ、劉嘉の息子劉廧*26は黄李侯*27に取りたてられた。
来歙は字を君叔*28といい、南陽新野*29の人である。父の来沖*30は、哀帝*31の時代の諫議大夫*32であり、劉秀の姑*33をめとって来歙を生んだ。来歙は才能計略の持ち主であり、多くのものごとに通暁し、悲憤慷慨の志士であった。五人兄弟であったが、劉秀はただひとり彼だけを信愛した。
漢軍が立ちあがると、王莽*34は使者をやって劉氏の親戚らを逮捕させた。来歙を捕まえて投獄したが、賓客どもが共謀して来歙を盗みだした。更始帝*35が即位すると来歙は役人とされたが、しばしば正論でもって諫言しても採用されず、病気を口実に退職した。来歙の妹は劉嘉の妻であったので、使者をやって来歙を迎えいれさせた。そこで南方へ身を寄せたのである。そのころ、天下の形勢を見極めるべきだとして劉嘉の帰服に反対する者があったが、来歙が利害を説明して懇々と教えさとしたので、劉嘉はその意見に従うことにしたのである。劉秀は来歙に会って大喜びし、来歙を太中大夫*36に任命した。
秋、睢陽*37が反乱を起こし、劉永*38がふたたび睢陽に入国したので、呉漢*39・蓋延*40が諸将を率いてこれを包囲した。
九月、赤眉軍がふたたび長安に侵入した。鄧禹は連戦を重ねたが、そのたびに赤眉軍に敗北した。三輔*41地方は飢饉に見まわれ、民衆が互いを食らいあうほどで、部曲*42を抱える者たちがみな城壁を固めて平野を清めた*43ので、赤眉軍は略奪を働いても得られるものは少なかった。
劉秀はふたたび鄧禹に詔勅を下した。「軍隊を統括して堅守せよ。くれぐれも困窮した賊軍と戦ってはならぬぞ!賊徒どもは疲弊しており、必ずや両手を束ねて我が軍に従うことになるであろう。満腹して飢餓民を相手にし、元気のまま疲労者を攻撃するのだから、笞で叩きつけるようなものだ。」馮愔*44が宗歆*45を殺害して以来、鄧禹の威信はいよいよ失われ、さらに食糧も底を突いてきたため、帰服した者たちも離散していった。劉秀はそこで使者をやって鄧禹を徴しかえした。
馮異*46が西方に遠征するとき、劉秀は馮異に命じた。「三輔地方は王莽・更始帝の戦乱に巻きこまれ、また赤眉・延岑により疲弊しておる。軍閥どもが勝手に振るまい、百姓たちは塗炭の苦しみだ。将軍はいま命令を受けて無法者を討伐することになったが、軍閥のうち降伏する者があれば、その頭目はすべて京師*47に参詣させ、配下の領民は解散させて農業に戻らせよ。彼らの要塞は破壊してふたたび結集させないように。征伐というのは、遠方の土地を奪ったり多数の城郭を落としたりすることではなく、肝心なのは平和を取りもどして落ちつかせることなのだ。わが諸将に勇猛でない者はないが、しかし略奪を好んで領民を侵害する者が多い。あなたは官吏や兵士の検査に長けておるから、わが身を慎んで郡県を苦しめないよう努力してくれよ。」こうして馮異は華陰*48を占拠し、赤眉軍と対峙することになった。
冬、太中大夫の伏隆*49を青州*50・徐州*51への使者として張歩*52を降伏させた。そして令*53・長*54を任命して多くの者を心服させた。劉秀は伏隆の功績を讃歎して酈生*55になぞらえた。張歩が斉王*56になりたいと申請したところ、伏隆が「劉氏でなければ国王に取りたてない、それが高祖*57さまの天下の人々とのお約束です」と言ったので、張歩は伏隆を殺して、劉永の爵位を授かった。伏隆は字を文伯*58といい、大司徒*59伏湛*60の息子であり、節操の高さで知られていた。劉秀は、彼の死を聞いて涙を流した。
十二月戊午*61、詔勅を下した。「思うに、列侯でありながら王莽に改易され、祖先の霊魂は行くあてもない。朕はいたく哀しく思う。改易された列侯本人は領国を返還し、本人が死亡している場合は子孫があれば継承させよ。」
河内*62太守の寇恂*63は勤務評定に引っかかって免職となった。ちょうど潁川*64が不穏な状況であったため、寇恂は潁川太守に復帰して郡内をことごとく平らげた。寇恂は雍奴侯*65に取りたてられた。そのころ賈復*66の軍兵が汝南*67にあって、その部将が人を殺したので、寇恂がそれを処刑した。賈復は腹を立てて言った。「わしは寇恂と対等な立場なのに、やつに陥れられた。大丈夫たる者、侮辱されて決断せぬ者があろうか?今度会ったときは、この手で斬ってやる!」寇恂は考えた結果、彼を避けるだけでよしとした。
終崇*68という者が申しでた。「帯剣してお側に控えることをお許しください。変事が起こっても充分に対応できますから。」寇恂は言った。「それは違う。むかし秦王*69をも恐れぬ藺相如*70が廉頗*71に屈したのは国家のためであった。ちっぽけな趙*72でさえ、このような義士がおったのだ。わしがどうしてそれを忘れられようぞ?」そこで各県に命じて盛大に料理を用意させ、執金吾*73の軍兵が入ってきた場合には、一人につき二人づつで接待させることとした。寇恂は賈復を迎えいれたあと、病気だと言って中座した。賈復は追いかけて寇恂を攻撃しようと思ったが、官吏や兵士たちがみな酔いつぶれていたので、賈復はそのまま引きあげた。
劉秀が寇恂を徴しかえし、寇恂が到着して参内したとき、御前にいた賈復が立ちあがろうとした。劉秀が言った。「天下はまだ平定されておらぬに、両方の虎どのがどうして私闘などできようか?」勅命により隣同士に座らせて楽しみを尽くした。最後には同じ車で退出して、友人の契りを交わしてから別れた。寇恂は改めて汝南太守に任命され、郡内の事件が片付くと、郷校*74を設立し、『左氏春秋』*75をよく理解する者があれば、じきじきに彼とともに研究した。
この年、鄧王*76の王常*77が妻子をつれて洛陽に参詣した。劉秀が「いつも苦労した時代を思いだして忘れた日などなかった。往くでもなし来るでもなし、どうして昔の言葉を裏切ったのかね?*78」と言うと、王常は土下座して答えた。「臣は天命をこうむって陛下と出会いました。最初は宜秋*79で、後日は昆陽*80でお会いし、ご威光のおかげで断金の交わりを得られたのです。はるばると疎遠になったとはいえ、わたくしは決して揺らぐことはなかったのです。聖王陛下、どうか臣の本心をお察しください。」劉秀は百官を集めて王常を指さし、「この人物は諸将を率いて漢家*81を輔佐した。金石のごとき心の持ち主であり、まこと漢の忠臣である」と述べて、王常を漢忠将軍*82・山桑侯*83に任命した。
大司空*84王梁*85を罷免した。もともと王梁が諸将とともに檀郷*86を攻撃していたとき、詔勅により軍事は大司馬*87の呉漢に一任されていたのに、王梁は独断で野王*88で徴兵を行った。劉秀は、王梁が詔勅に従わなかったということで、現在の所在の県に留まれと王梁に勅命を下した。王梁が都合に合わせて兵隊を進軍させたので、劉秀は激怒し、尚書*89の宋広*90に節*91を持たせて王梁を斬首させた。宋広は王梁を逮捕して檻車*92で京師に護送した。到着すると、赦免して中郎将*93とした。
*1:とうう。二十八将の筆頭。
*2:じょうりん。地名。
*3:こうびょう。漢の高祖の廟所。
*4:らくよう。県名。劉秀が都とした地。
*5:うんよう。県名。
*6:かんちゅうおう。漢中を領地とする国王。
*7:りゅうか。
*8:らいきゅう。
*9:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。
*10:こうそん。
*11:いとこ。
*12:なんとんくん。劉欽(りゅうきん)のこと。南頓の令を務めた。
*13:せい。国名。
*14:ぶおう。劉秀の兄である劉縯(りゅうえん)を指す。死後、武王の号を贈られた。
*16:なんてい。県名。
*17:なんよう。郡名。
*18:えんしん。群雄の一人。
*19:ぶとう。県名。
*20:こくこう。地名。
*21:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。
*22:りょうたん。
*23:せんじょう。郡名。のちに楽安(らくあん)と改名される。
*24:たいしゅ。官名。郡の長官。
*25:じゅんようこう。順陽を領地とする諸侯。
*26:りゅうしょう。
*27:こうりこう。黄李の意味するところはよく分からない。
*28:くんしゅく。
*30:らいちゅう。
*31:あいてい。劉欣(りゅうきん)のこと。
*32:かんぎたいふ。官名。
*33:おば。
*35:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。
*36:たいちゅうたいふ。官名。
*37:すいよう。郡名。
*38:りゅうえい。群雄の一人。
*39:ごかん。二十八将の一人。
*40:がいえん。二十八将の一人。
*42:ぶきょく。私兵集団。
*43:原文「清野」。作物を刈りとって敵軍に食糧を与えないようにすること。
*44:ふういん。
*45:そうきん。
*46:ふうい。二十八将の一人。
*47:みやこ。
*48:かいん。県名。
*49:ふくりゅう。
*50:せいしゅう。州名。
*51:じょしゅう。州名。
*52:ちょうほ。群雄の一人。
*53:れい。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。
*54:ちょう。同上。
*56:せいおう。斉を領地とする国王。
*58:ぶんぱく。
*59:だいしと。官名。三公の一つ。民政担当の大大臣。
*60:ふくたん。
*61:ぼご。つちのえうま。原文では「戊子」とあるが『後漢書』により改める。
*62:かだい。郡名。
*63:こうじゅん。二十八将の一人。
*64:えいせん。郡名。
*65:ようどこう。雍奴を領地とする諸侯。
*66:かふく。二十八将の一人。
*67:じょなん。郡名。
*68:しゅうすう。
*69:しんおう。戦国時代の列強国の国王。
*70:りんしょうじょ。戦国時代の趙の臣下。
*71:れんぱ。同上。
*72:ちょう。戦国時代の列強国。
*73:しっきんご。官名。九卿の一つ。宮殿警備担当の大臣。ここでは賈復を指す。
*74:きょうこう。田舎の学校。
*75:さししゅんじゅう。書名。
*76:とうおう。鄧を領地とする国王。
*77:おうじょう。
*78:王常はかつて劉氏こそが真の君主だと述べたことがあったが、このときまで更始帝のもとにいた。
*79:ぎしゅう。集落名。
*80:こんよう。県名。
*82:かんちゅうしょうぐん。官名。
*83:さんそうこう。山桑を領地とする諸侯。
*84:だいしくう。官名。三公の一つ。財政担当の大大臣。
*85:おうりょう。
*86:だんきょう。地名。
*87:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。
*88:やおう。県名。
*89:しょうしょ。官名。書記官。
*90:そうこう。
*91:せつ。勅使に与えられる旗。
*92:かんしゃ。檻の付いた車。
*93:ちゅうろうしょう。官名。将校。