東郡の人々

さて、曹操袁術配下(?)の王匡を斬って袁紹に帰参し、東郡太守に任じられるわけですが、曹操配下の東郡出身者といえばなんといっても程昱。黄巾の乱のときは無位無官の身ながら県令の助言役として賊軍撃退に貢献、界橋会戦では刺史の劉岱に招かれて指南を乞われてます。それだけ絶大な功績があり、君主の信頼を集めながら、当の本人はまったく野心がなく推挙を辞退してるところがまったく格好いい。よく物語に出てくるような田野に隠れすむ賢者のようなイメージで、おそらく程昱自身、黄老思想の影響を受けていたんではないかなと思います。

わたしが個人的に「三羽烏」と思ってるのが、陳宮楽進、薛悌の三人。

このうち陳宮曹操を兗州牧に就けるべく州の重役のあいだを周旋し、のちに張邈を説きふせて呂布を招きいれたり、呂布のもとでも筆頭の重臣として重用されてたりするので、おそらくこの人は東郡のなかでもかなりの勢力家だったと思います。曹操のもとでは「将軍」と呼ばれ、呂布の乱では一翼の将校として程昱と戦ってます。『演義』で描かれるよりは、武将としての印象がつよい人物です。

楽進はさいしょ曹操の側近だったというので私的な雇い人にすぎず、門下掾とか督郵といった公の官職に就くような身分ではなく、したがって、かれ自身は資力もないため兵力を持ってない。その楽進が頭角をあらわすのが、曹操の兗州牧就任の時期で、故郷にかえって千人あまりの兵力を調達した。それが認められてようやく公職に就けるようになります。曹操の腹心の部下であるとはいえ、声かけだけで千人もの兵力を集められるとは思えないので、おそらく楽進は身分こそ低いものの、もともと無法者や流民の面倒を日ごろよく見ていた顔役だったのではないかと思います。

薛悌ももともと低い身分の人だということですが、これは楽進とは違って、政府高官として出世するにはちょっと…という意味合いで、地方の役所ではそこそこのクラスです。曹操が兗州牧になったとき従事に任命されたのは、おそらく曹操が東郡太守だった時代に貢献度が高かったからでしょう。呂布の乱で活躍して泰山太守に抜擢されます。兗州従事になっただけでも抜擢なのに、そのうえ泰山太守にも抜擢で、とうとうキャリア組の頭上を飛びこえてしまいました。ふつう太守なんて三十代でなるものなのに、薛悌はわずか二十二歳で就任してしまいます。その後も曹操陣営の重鎮としてかなりの存在感を示しますが、なぜか史書にはあまり言及されず、現代の人にはほとんど知られてません。

そのほか、東郡の出身ではありませんが、このころ配下になった者に朱霊があります。正確な時期は分かりませんが曹操陶謙と戦ったときとのことです。というと徐州遠征のころのように思われてきますが、おそらくそうではなく、公孫瓚の意をうけて陶謙が東郡に侵攻したときのことではないかなと思います。というのは、徐州遠征のころはすでに曹操も大軍を率いる立場にあり朱霊が参入しなければならない理由があまりないこと、それ以前の東郡時代のほうが曹操袁紹との関係が密接だったこと、朱霊の故郷が清河であり東郡に程ちかいこと、などの事情があるからです。

また荀彧らが曹操に身をよせたのも、この時期です。伝記では袁紹に愛想を尽かして…ということになってますが、実際には、袁紹陣営の東の守りを任されていた曹操部隊が戦力的にやや不安だったので、朱霊らとともに増援部隊として配属されたんじゃないかなと思います。

これまで曹操の部下といえば曹洪くらいの姿しか見えなかったのが、東郡太守になってから曹操の周辺も少しづつ賑やかになってきます。