三顧の礼

陳寿は『三国志』を編纂するにあたり、既存の史料からその内容をそっくりそのまま、あるいは要約のうえ転載することが多い。諸葛亮伝の三顧の礼もそうした方法で書かれたものの一つだ。転載元は『出師の表』である。

(原文)臣本布衣,躬耕於南陽,苟全性命於亂世,不求聞達於諸侯.先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣於草廬之中,諮臣以當世之事,由是感激,遂許先帝以驅馳.
(訳文)臣はもともと南陽でみずから野良仕事をするような平民でございまして、乱世で生命を全うできれば幸いと、諸侯のもとでの名誉栄達は願っておりませんでした。先帝は臣を田舎者とされず、恐れ多くも直々に御身を屈して草廬中の臣を三たびご訪問になり、当世の情勢について臣にご諮問なさいました。これがきっかけとなり感動激情し、ついに先帝のもとで駆けずりまわることを誓ったのです。

それが諸葛亮伝に移されると、こうなる。

(原文)由是先主遂詣亮,凡三往,乃見.
(訳文)そこで先主はそのまま諸葛亮を訪れ、合わせて三たび往来したのち、ようやく会うことができた。

「凡三往」が「三顧臣於草廬之中」に対応しており、内容は『出師の表』の要約にすぎない。前後に劉備徐庶のやりとりがあり、諸葛亮の三分之計の開陳があるのでこれ以外にも基づく史料はあるはずだが、陳寿が『魏略』の伝えを採用しなかったのは諸葛亮自身が三顧に言及しているからであると思われ、したがって三顧故事の実在の根拠に『出師の表』を採用することはできない。