袁綏

三国志』陸瑁伝注
(原文)迪孫曄,字思光,作獻帝春秋,云迪與張紘等俱過江。迪父綏為太傅掾,張超之討董卓,以綏領廣陵事。
(訳文)袁迪の孫袁曄は字を思光という。『献帝春秋』を著作し、袁迪は張紘らとともに長江を渡った、と書いている。袁迪の父袁綏は太傅掾である。張超は董卓を討伐したとき、袁綏に広陵の職務を宰領させた。

袁綏が太傅掾であったと言っている。ここでいう太傅とは誰のことだろうか。錬恕『後漢公卿表』によれば、中平以降、太傅に補任された者は袁隗、馬日磾の2人しかいないはずだが……。

袁隗
中平六年四月拝。初平元年三月被殺。
馬日磾
初平三年七月拝。興平元年十二月薨於寿春。

おそらく馬日磾が寿春を訪れたとき、掾に召しだされたのではないだろうか。袁術の影響を受けていた可能性がある。

いや、そうでもないか。袁隗が殺されたので故郷に帰り、主君の仇討ちに協力したということか。