関羽は左伝をそらんじたか

後漢書集解』は傅燮伝で恵棟の説を引いている。いわく、

(原文)惠棟曰:「此傳,全採燮孫元所撰傅子也。」
(訳文)恵棟は言う。「この伝記はすべて、傅燮の孫・傅玄の書いた『傅子』から採用されている。」

つまり当人の孫の書いた祖父の伝記がそのまままるごと『後漢書』傅燮伝の本文になっているわけだ。孫が伝記を書いてるんだから、そこで祖父の美点が誇張されてるのは当然なわけで、場合によっては汚点が隠蔽され、ウソが書かれてるかもしれない。


三国志』劉劭伝の注に、繆襲が友人・仲長統の著作『昌言』を推薦する上表文が引用されている。繆襲はこの上表文のなかで仲長統なる者がいかなる人物で、いかに称賛に値するかを滔々と述べているが、その言葉がそのままそっくり『後漢書』仲長統伝になっている。つまりこの伝記には友人の目をとおしての人物像が書かれているわけだ。


三国志関羽伝の注に、『江表伝』が引用されている。いわく、

(原文)江表傳曰:「羽好左氏傳,諷誦略皆上口.」
(訳文)『江表伝』に言う。「関羽は『左氏伝』を愛好し、ほとんどすべてを口頭でそらんずることができた。」

しかし『江表伝』といえば呉のできごとが書かれた史書である。なぜ蜀の関羽のことが書かれているのだろうか。実は、これは呉の呂蒙による関羽評の一節なのである。魯粛周瑜の後任として江陵へ向かう途中で呂蒙の屋敷に立ちよったとき、関羽がいかに警戒すべき危険人物であるかと述べる呂蒙の警告なのだ。呂蒙伝の注にまったく同じ箇所が引用されているので比較してみるといいだろう。

呂蒙関羽と面識があったわけでもないし、関羽の手強さを強調する意図もあったのだから、ほんとうに関羽が『左伝』を暗唱できたのかどうか、なかなか信じられるものではない。さいわい、関羽伝と呂蒙伝の双方に同じ箇所が引用されているからこそ検討もできたが、もし呂蒙伝に引用されず、関羽伝で文脈から切りはなされた形でしか引用を目にできなければ、こうした疑いを抱くこともなかっただろう。