光武帝紀23 「赤眉を降す」

鄧禹が失策を重ねるなか、馮異が頭角を現して赤眉軍・延岑を撃破。赤眉軍は宜陽に逃れて劉秀に降服。山東に起こり、中原をへて関西を荒らしまわった赤眉軍も、ついに歴史の表舞台を立ちさります。


建武*1三年*2の春正月、洛陽*3に親廟*4を建立し、同日、馮異*5征西大将軍*6に任命した。鄧禹*7は帰還命令をうけて、車騎将軍*8鄧弘*9とともに華陰*10まで戻ってきたところで、進軍して赤眉*11軍を攻撃しようと考えた。馮異が言った。「赤眉軍は人数が多いので、恩愛信義でもって手懐けるがよろしく、兵力でもって打ち破るのは難しゅうございますぞ。陛下のご命令は、諸将を澠池*12に進駐させて東方に備えさせ、馮異に連携させて西方を攻撃させるというものでした。陛下は集結を待ってから一挙に攻略なさるお考えで、これこそ万全の計略でしょう。」鄧禹と鄧弘は西方遠征の途中で命令をうけて帰国しなければならなかったので、(名誉回復のため)一戦して勝敗を決めようとしたのである。

けっきょく戦争となり、数日もしないうちに鄧禹軍は大敗した。馮異は兵隊を率いて救援しようとしたが、かなわず、軍隊を捨てて逃走、麾下の数人だけを連れて陣営に戻ってきた。ふたたび敗残兵を拾って防壁を固めた。

ちょうど赤眉軍に飢餓が発生したので、計略を定めて攻撃し、彼らを大いに打ち破った。降服する者は八万人を越え、十万人あまりが東方の宜陽*13へ逃げさった。詔書により馮異に慰労があった。「回渓*14では羽を休ませ、澠池では翼を奮わせた。東隅*15で失敗したが、桑楡*16で回復したのである。」


そのころ延岑*17が藍田*18を占拠しており、兵力は最強であった。劉秀*19はいつも詔書を与えて延岑をなだめていた。その他の豪傑もあちこちで軍隊を集め、多い者で一万人、少ない者で数千人、それが互いに攻撃しあっていた。百姓たちは飢餓に苦しみ、数斛の食糧が黄金一斤五斗に相当した*20。馮異は転戦をかさねて上林*21のなかまで進駐したが、道路が不通で、輸送も遅れが出ており、兵士たちはみな果物を取って食糧にあてていた。

延岑が豪傑らを率いて馮異に攻めかかってきたが、馮異は反撃して彼らを大破した。延岑はなんど戦っても勝つことができず、仲間がみな寝返るありさま、とうとう武関*22から南陽*23へと逃走した。馮異が赤眉軍を打破し、延岑を敗走させたことから、豪傑らはみな使者をよこして降服を願いでた。馮異の威勢は関中*24に鳴りひびき、陵墓を修復して役所を建設し、曲直を正して盗賊を取り締まったので、数年のうちに上林は都のようになった。


同月、陝*25の蘇況*26という人が反乱を起こし、弘農*27太守*28を殺害した。劉秀は夜中に景丹*29を呼びだして檄文*30を見せながら言った。「弘農太守は職務にふさわしい能力がなく、賊軍に殺されてしまったよ。赤眉軍が西方から向かってきているとの報告があり、蘇況が郡中をこぞって彼らを迎えいれることが懸念される。弘農は京師*31に間近い。いま将軍は病気を患っておいでだが、とにかく寝たままでよいので鎮圧してくれ。」すぐさま景丹を弘農太守に任命し、その配下を率いて西方の郡に赴任させたが、十日あまりして景丹は薨去してしまった。


閏月乙亥*32、劉秀は宜陽に行幸し、司馬*33を先鋒、中軍*34を次鋒とし、驍騎*35・元戎*36の陣列を左右に展開した。赤眉軍は恐怖におののき、劉恭*37を使者として降服を願い出て、劉盆子*38・徐宣*39らの二十人あまりは着物を脱いで更始帝*40の璽綬*41を献上し、宜陽の城西に積みあげられた武具は熊耳山*42と同じ高さになった。

劉秀が兵隊を並べて洛水*43の中洲に現れると、劉盆子・徐宣らは序列にしたがって御前に並んだ。劉秀が「あなたがたは後悔しておらんかね?」と訊ねると、徐宣は「臣*44どもは長安*45の東門を出てから主従で相談し、聖徳*46さまのもとへ帰服することにいたしました。百姓どもはともに成功を願うことはできても、ともに創始を計画することはできません。だから連中には言わずにいたのです。今日、降服をお認めいただけたのは、ちょうど虎口を去って慈母のもとに帰るようなもの、まこと歓喜のいたり、恨みなどございません」と答えた。劉秀は「あなたがたは鉄のなかの錚錚*47、凡人のなかの佼佼*48といったところだな」と言い、すべて赦免し、妻子とともに洛陽に住まわせ、それぞれ一区の邸宅、二頃の田畑を与えた。

樊崇*49はのちに反逆を企てて誅殺された。楊音*50長安にいたころ広陽王*51の劉良*52に出くわして恩をかけていたので、関内侯*53爵位をもらい、徐宣とともに郷里に帰って寿命をまっとうした。式侯*54の劉恭は更始帝の仇討ちとして謝祿*55を殺し、自首してきたが、劉秀が赦免してやった。劉秀は劉盆子を可愛がって褒美の品々はたいそう手厚く、趙王*56の郎中*57に取りたてた。(劉盆子が)病気のために失明すると、滎陽*58の官有地を与えて市場を作り、その税金で生活費にあてさせた。


鄧禹は宜陽に到着すると、大司徒*59と梁侯*60印綬を返上した。詔勅により梁侯の印綬は差しもどし、かれを右将軍*61とした。


彭寵*62が薊*63を包囲したので、耿況*64が兵隊を派遣して救援した。(彭寵が)使者を遣して耿況を誘惑したが、耿況はその使者をただちに斬首した。

*1:けんむ。劉秀(りゅうしゅう)の建てた年号。

*2:西暦27年。

*3:らくよう。県名。劉秀が都とした地。

*4:しんびょう。祖先をまつる祭壇。

*5:ふうい。二十八将の一人。

*6:せいせいだいしょうぐん。官名。

*7:とうう。二十八将の筆頭。

*8:しゃきしょうぐん。官名。車騎は「戦車と騎馬」の意。

*9:とうこう。

*10:かいん。県名。

*11:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。

*12:べんち。県名。

*13:ぎよう。県名。

*14:かいけい。地名。「回阬」ともいう。馮異が鄧禹の救出に失敗して軍隊を捨てて逃れた場所。

*15:とうぐう。朝の意。

*16:そうゆ。夕の意。

*17:えんしん。群雄の一人。

*18:らんでん。県名。

*19:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*20:『太平御覧』(たいへいぎょらん)の引用では「黄金一斤が食糧五升と交換された」とある。

*21:じょうりん。地名。

*22:ぶかん。関所の名。

*23:なんよう。郡名。

*24:かんちゅう。函谷関の内側、長安(ちょうあん)の一帯。

*25:せん。県名。

*26:そきょう。

*27:こうのう。郡名。

*28:たいしゅ。官名。郡の長官。

*29:けいたん。二十八将の一人。

*30:げきぶん。回し文。蘇況が各地に送った宣伝文書のこと。

*31:みやこ。

*32:いつがい。きのとい。

*33:しば。官名。隊長。

*34:ちゅうぐん。本営のこと。

*35:ぎょうき。精鋭騎兵隊。

*36:げんじゅう。弩を改良したもの。ここでは重火器部隊。

*37:りゅうきょう。

*38:りゅうぼんし。赤眉の皇帝。

*39:じょせん。赤眉の丞相(じょうしょう)。

*40:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*41:じじゅ。玉製の印とその紐。皇帝権力の象徴。

*42:ゆうじさん。山名。

*43:らくすい。河川名。

*44:わたくし。臣下の一人称。

*45:ちょうあん。県名。前漢、新の王莽(おうもう)が都とした地。

*46:せいとく。劉秀を指す。

*47:そうそう。堅く、鋭利なこと。

*48:こうこう。人柄の優れていること。ここでは「鉄や凡人のなかにいれば、ましなものに見える」の意。

*49:はんすう。赤眉軍頭目

*50:ようおん。原文では「楊歆(ようきん)」とあるが『後漢書』により改める。

*51:こうようおう。広陽を領地とする国王。

*52:りゅうりょう。

*53:かんだいこう。領地を持たない諸侯。

*54:しょくこう。式を領地とする諸侯。

*55:しゃろく。赤眉の大司徒(だいしと)。

*56:ちょうおう。趙を領地とする国王。劉良を指すか。

*57:ろうちゅう。官名。側近。

*58:けいよう。県名。

*59:だいしと。官名。三公の一つ。民政担当の大大臣。

*60:りょうこう。梁を領地とする諸侯。

*61:うしょうぐん。官名。

*62:ほうちょう。群雄の一人。

*63:けい。県名。

*64:こうきょう。