光武帝紀24 「諸将 奮戦す」

劉秀は赤眉軍を降したものの、まだまだ強敵は多く、呉漢が負傷し、朱祜が生け捕りにされるなど、諸将は苦戦を強いられます。呉漢・岑彭らの活躍で山東・荊楚の攻略が進められ、そうした情勢のなか群雄の一人劉永が部下に斬られて落命します。


二月己未、高廟*1をお祭りして伝国の璽*2を拝受し、天下の長男たちのうち父の跡継ぎになったものに爵位を与え、一人あたり二階級とした。


中軍将軍*3杜茂*4を驃騎大将軍*5とした。杜茂は字*6を諸公*7といい、南陽*8冠軍*9の人である。劉秀*10の征伐戦に従軍し、なんども戦功を立てていた。


三月、尚書*11伏湛*12を司徒*13とした。伏湛は字を恵公*14といい、琅邪*15東武*16の人である。王莽*17の時代に繡衣執法*18となり、後隊正*19に昇進、更始帝*20が即位すると平原*21太守*22となった。騒乱に出くわして世の人々に驚き騒がない者はなかったが、ただ伏湛だけは平然としており、いつも通りの教育ぶりであった。妻子に向かって「(むかし)ひとたび食糧が不作となれば君主は食膳を壊したものだ。いま人々がみな飢えているのに、どうして一人だけ満腹になれようか」と言い、俸禄を郷里の人々にばらまくと、百家あまりが客人として身を寄せた。

そのころ郡内は落ちつかないでいたが、伏湛は手紙を属県に配って、「互いに争ってはならぬ。天は庶民を生かすべく君主を立てるのだ。混乱は長くは続かぬ。とにかく老人に孝養を尽くして幼児を愛育し、真の君主を待つように」と述べた。もともと気力の強かった門下督*23が挙兵しようとしたとき、伏湛は「孔子*24さまが少正卯*25を処刑されたのは、そやつが人々を惑わせたからなのだ」と言うやいなや、ただちに門下督を処刑して百姓たちへの見せしめとした。このことから役人も平民も信服し、唯一(平原郡だけが)遠くも近くも完全でいられたのは、伏湛のおかげなのであった。


呉漢*26が広楽*27を包囲すると、周建*28が十万人あまりを率いて救援してきた。呉漢は迎撃しても勝てず、落馬して膝を傷つけるありさま、みすみす周建らを城内に入らせてしまった。諸将が呉漢に告げた。「大敵を目前にして公が臥せっておられるので、兵卒どもが怖じ気づいております。」そこで呉漢は傷口に包帯をまいて立ちあがり、牛をつぶして兵士たちに振るまい、「賊軍は多数であるが略奪好みの盗人にすぎぬ。勝っても譲りあうことなく、負けても助けあうことなく、節*29を立てて義に死し、心を同じくする者ではないのだぞ。諸侯の地位を賜るときだ。諸将よ、がんばれ!」と言った。役人も兵士もそれを聞いて憤激せぬ者はなかった。

翌日、賊軍が総動員でいくえにも陣営を取りかこんだ。呉漢は甲冑をまとい戟を杖にして言った。「雷鼓の音が聞こえたら皆で鬨の声を挙げつつ一斉に進め。遅参する者があれば斬る!」そして鼓を打って進撃させると、賊軍は大敗し、広楽は降服した。蘇茂*30・周建が胡陵*31へと敗走したので、(呉漢は)さらに睢陽*32を包囲した。


そのころ秦豊*33が黎丘*34を占拠し、延岑*35が武郷*36を占拠し、董訢*37が堵郷*38を占拠し、鄧奉*39が新野*40を占拠し、荊楚*41地方がもっとも混乱を極めていた。劉秀はこれを平定すべく、岑彭*42を征南大将軍*43とし、耿弇*44・賈復*45・朱祜*46・王常*47らと協力して征討させることとした。

まず董訢を包囲したところ、鄧奉が一万人を率いて董訢を救援した。董訢・鄧奉の軍隊はきわめて勇猛であったので、諸将はなんど戦っても勝つことができなかった。鄧奉が勝利に乗じて朱祜を生け捕りにするにおよび、劉秀はその報告をうけて激怒した。

夏四月、劉秀はじきじきに南征軍を起こして葉*48に着陣したが、董訢・鄧奉が兵隊を率いて進路を遮断したので、進むことができなくなった。劉秀は岑彭に告げた。「これは将軍ならばこその仕事だ。」岑彭はそこで勇戦して彼らを撃ち破った。董訢・鄧奉は育陽*49へ逃走し、朱祜を利用して降服を願いでた。劉秀は鄧奉が古株の功臣であったことから赦免してやるつもりであったが、耿弇が「鄧奉は恩義に背いて反逆し、軍隊を率いて何年も暴れまわり、陛下がお越しになりじきじきに出馬され、軍隊を失ってようやく降服したのです。鄧奉を処刑しなければ悪党を懲らしめることができません」と告げたので、処刑した。劉秀は朱祜が生け捕りにされたので(哀れに思い)、ますます褒美を手厚くし、もとの官位に戻してやった。


耿弇が延岑を打ち破ると、延岑は蜀*50へ逃げこんだ。


五月乙卯*51晦日*52日蝕があった。天下に大赦令を下した。劉永*53の部将慶吾*54劉永を斬って投降してきたので、慶吾を列侯*55に取りたてた。蘇茂・周建は劉永の息子劉紆*56を梁王*57とし、垂恵*58に立てこもった。


冬十二月、劉秀は舂陵*59行幸して園廟*60を祭り、盛大な酒盛りを開いて、舂陵の長老や旧友たちとともに楽しんだ。


岑彭・傅俊*61・臧宮*62を派遣して秦豊を攻撃させたが、秦豊が鄧*63で漢軍を防いだので、岑彭らは何ヶ月も進むことができなかった。劉秀がたびたび叱責したので、岑彭はそこで軍隊に「翌朝、山都*64に集結せよ」と命令を下し、ひそかに囚人を釈放した。秦豊は(囚人の口から)それを聞くと全軍を西方に引きはらって岑彭を待ちうけた。そこで岑彭がまっすぐ黎丘を襲撃すると、黎丘は恐慌状態となり、秦豊はあわてて救援に戻ってきた。岑彭は迎撃してこれを大破し、そのまま黎丘を包囲した。こうして岑彭は舞陰侯*65に取りたてられた。


もともと汝南*66の田戎*67は南郡*68で挙兵して数万人の軍勢を抱え、夷陵*69に駐屯していた。協議のすえ漢に投降しようとしたとき、田戎の妻の兄辛臣*70は裏切り者であり、それが彭寵*71・張歩*72・董憲*73劉永・李憲*74・公孫述*75・隗囂*76・劉芳*77の手にした郡国を(地図に)描いて「洛陽*78が手に入れたのは手のひらほどの土地にすぎない。とにかく軍事情勢を観測しておればよい。どうしてあわただしく降服することがあろうか?」と言う。田戎は「我が軍は秦豊に敵うものではないが、その秦豊でさえ征南*79に包囲されておるのだ。ましてや、わしごときではな。投降は決定事項である」と言い、長江*80の流れにのって沔水*81に入り、岑彭に降服することとし、辛臣には長史*82とともに留守をさせた。

辛臣は田戎の珍宝と駿馬を盗みだすと、陸路から朝晩とおして岑彭のもとへ出向いて「つつしんで田戎に降服を説得いたしました。田戎は後ほど参ります」と言い、岑彭の陣営から田戎に手紙を出して「岑将軍はわたしを五千戸の諸侯に取りたててくださるよう推挙され、虚心坦懐に待遇してくれている。以前の地図にはこだわらず急いで来てくれ」と言った。辛臣には留守を命じておいたにもかかわらず先に諸侯に取りたてられていることから、田戎は疑念を起こし、しかも長史から檄文*83が届いたことで、辛臣が宝物と名馬を盗んだことを知り、ますます猜疑心を募らせ、ふたたび引きかえした。岑彭が田戎を攻撃して打ちやぶり、(田戎は)夷陵に帰陣した。


隗囂が使者を宮中に遣してきた。劉秀はいたく喜び、もともと彼の評判を聞いていたので虚心坦懐に待遇し、返答するさいは、いつも直筆で手紙を書いて(隗囂を)字で呼んだ。


この年、彭寵が独立して燕王*84を称し、李憲も天子*85を自称した。

*1:こうびょう。漢の高祖の廟所。

*2:でんこくのじ。秦朝から代々伝えられている玉璽。

*3:ちゅうぐんしょうぐん。官名。中軍は「本営」の意。

*4:とぼう。

*5:ひょうきだいしょうぐん。官名。

*6:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*7:しょこう。

*8:なんよう。郡名。

*9:かんぐん。県名。

*10:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*11:しょうしょ。官名。書記官。

*12:ふくたん。

*13:しと。官名。民政担当の大大臣。

*14:けいこう。

*15:ろうや。国名。

*16:とうぶ。県名。

*17:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*18:しゅういしっぽう。官名。

*19:こうすいせい。正は「属正」の略で、後隊大夫の副官。

*20:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*21:へいげん。郡名。

*22:たいしゅ。官名。郡の長官。

*23:もんかとく。官名。

*24:こうし。

*25:しょうせいぼう。

*26:ごかん。二十八将の一人。

*27:こうらく。地名。

*28:しゅうけん。

*29:せつ。勅使に与えられる旗。

*30:そぼう。

*31:こりょう。「湖陵」とも書く。

*32:すいよう。県名。

*33:しんほう。群雄の一人。

*34:れいきゅう。地名。

*35:えんしん。群雄の一人。

*36:ぶきょう。地名。

*37:とうきん。群雄の一人。

*38:しゃきょう。地名。

*39:とうほう。群雄の一人。

*40:しんや。県名。

*41:けいそ。荊州のこと。

*42:しんぽう。二十八将の一人。

*43:せいなんだいしょうぐん。官名。

*44:こうえん。二十八将の一人。

*45:かふく。二十八将の一人。

*46:しゅこ。二十八将の一人。

*47:おうじょう。三十二将の一人。

*48:しょう。県名。

*49:いくよう。県名。

*50:しょく。地名。

*51:いつぼう。きのとう。

*52:みそか

*53:りゅうえい。群雄の一人。

*54:けいご。

*55:れっこう。諸侯。

*56:りゅうう。

*57:りょうおう。梁を領地とする国王。

*58:すいけい。地名。

*59:しょうりょう。県名。

*60:えんびょう。廟所。

*61:ふしゅん。二十八将の一人。

*62:そうきゅう。二十八将の一人。

*63:とう。地名。

*64:さんと。県名。原文では「和成」とあるが『後漢書』により改める。

*65:ぶいんこう。舞陰を領地とする諸侯。

*66:じょなん。郡名。

*67:でんじゅう。群雄の一人。

*68:なんぐん。郡名。

*69:いりょう。県名。

*70:しんしん。

*71:ほうちょう。群雄の一人。

*72:ちょうほ。群雄の一人。

*73:とうけん。群雄の一人。

*74:りけん。群雄の一人。

*75:こうそんじゅつ。群雄の一人。

*76:かいごう。群雄の一人。

*77:りゅうほう。群雄の一人。

*78:らくよう。県名。劉秀が都とした地。ここでは劉秀を指す。

*79:征南大将軍岑彭のこと。

*80:ちょうこう。河川名。

*81:べんすい。河川名。

*82:ちょうし。官名。事務次官

*83:げきぶん。回し文。

*84:えんおう。燕を領地とする国王。

*85:てんし。皇帝。