淳于瓊の烏巣着陣から官渡戦終結までの日数

われわれ現代日本人にはなかなか分かりにくい要素だ。


淳于瓊の烏巣着陣から官渡戦終結までを振り返ってみよう。

三国志武帝

(原文)冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里.(略)公乃留曹洪守,自將歩騎五千人夜往,(略)大破瓊等,皆斬之.(略)郃等聞瓊破,遂來降.紹衆大潰.

(訳文)冬十月、袁紹は輜重車に食糧を輸送させ、淳于瓊ら、五人の部将に一万人余りの軍隊を率いて護送させ、袁紹陣営から北へ四十里に宿営させた。(略)公はそこで曹洪を守備に残し、みずから歩騎五千人を率いて夜中に出かけ、(略)淳于瓊らを大破し、すべて斬首した。(略)張郃らは淳于瓊が敗れたと聞いて、そのまま降服してきた。袁紹軍は大壊滅となった。

後漢紀』

(原文)十一月甲子,曹操袁紹戰於官渡,紹師大潰。

(訳文)十一月の甲子、曹操は官渡において袁紹と戦い、袁紹軍は大壊滅となった。

こうした記述を漫然と字面だけ見ていると、あたかも淳于瓊が烏巣へ赴いて翌月には袁紹軍が敗北したように読めてしまう。そこが現代日本人ならではの陥りやすい罠であって、実は建安五年には閏十月があるのだ。すなわち淳于瓊が烏巣を守ったのが十月、それから閏十月をはさんで、官渡の袁紹軍が壊滅したのが十一月、この間、最低でもまるまる一ヶ月は経過しているのである。*1

それでは、曹操が淳于瓊を破ったのは何月ごろのことであろうか。それが分からないのである。たしかに淳于瓊が烏巣へ赴任したのは十月であったかもしれない。しかし曹操の襲撃を受けたのが同じ十月であるとは限らない。翌月の閏十月中かもしれないし、あるいは十一月に入ってからかもしれない。もし烏巣への赴任直後、すなわち十月中のことであるとすれば、一般に信じられているようには反して、淳于瓊の敗死と袁紹軍の壊滅とはあまり関連の強いものでなくなるだろう。


なお、淳于瓊の烏巣赴任に際しては、次のような記述がある。

後漢書袁紹

(原文)相持百餘日,河南人疲困,多畔應紹.紹遣淳于瓊等將兵萬餘人北迎糧運.

(訳文)対峙すること百日あまり、河南の人々は疲れはて、離反して袁紹に投ずる者が多かった。袁紹は淳于瓊らに軍勢一万人あまりを率いさせ、北方から輸送される食糧を出迎えさせた。

これを信ずるとすれば少々おかしなことになる。曹操袁紹が官渡において対峙したのは八月からであり、これをどんなに大目に見積もっても八月初日から十月末日ではせいぜい九十日に過ぎず、百日あまりということにはならない。どこかの記述に間違いがある。考えられることの一つには、両軍の対峙を七月以前から数えるという手で、袁紹は延津を渡ってから曹操を追撃して陽武に入城しているので、そこを基点として考えれば矛盾はない。あるいは「百日あまり」というのが文学的修辞であって、実は九十日ていどであるのを誇張していると見るのが正しいかもしれない。あるいは淳于瓊の烏巣への赴任が十月ではなく、「閏十月」とすべきところを史書が誤記しているだけかもしれない。

*1:十一月甲子は月初から十二日目であるから、十月末からでも四十日以上を数える。