袁紹は淳于瓊を救援している

史書の歪曲が酷い酷い、やー酷い。

三国志』張郃伝

(原文)太祖與袁紹相拒於官渡,紹遣將淳于瓊等督運屯烏巣,太祖自將急撃之.郃説紹曰:「曹公兵精,往必破瓊等;瓊等破,則將軍事去矣,宜急引兵救之.」郭圖曰:「郃計非也.不如攻其本營,勢必還,此為不救而自解也.」郃曰:「曹公營固,攻之必不拔,若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣.」紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻太祖營,不能下.太祖果破瓊等,紹軍潰.

(訳文)太祖は官渡において袁紹と対峙していたが、袁紹が部将の淳于瓊らを烏巣に派遣して輸送を監督させていたので、太祖はじきじきにこれを強襲しようとした。張郃が袁紹を説得した。「曹公の軍勢は精鋭ぞろいですので、出馬すれば必ず淳于瓊らを破るでしょう。淳于瓊らが破られれば、将軍の計画も失敗です。取りいそぎ軍勢を率いて救援すべきです。」郭図が言った。「張郃の計画はまずいでしょう。やつの本営を攻撃するに越したことはございません。勢いからいえば、必ず引き返してきます。これぞ救わずして解放するものです。」張郃は言った。「曹公の陣営は堅固ですので、攻撃してもきっと陥落させられません。もし淳于瓊らが捕らえられれば、われらが一党、ことごとく捕虜になりましょうぞ。」袁紹はただ軽騎兵だけを淳于瓊の救援に送り、重歩兵でもって太祖の陣営を攻撃したが、陥落させられなかった。太祖は果たして淳于瓊らを破り、袁紹軍は壊滅したのである。

この記述もおかしい。 論旨としては、淳于瓊を救援せよとの張郃の進言を袁紹が斥けたことになっており、それが袁紹軍の敗北の原因であるかのように印象づけられている。しかし、文中でも明記されているように袁紹軽騎兵を救援に出している。ここに袁紹の判断ミスはない。あるいは、重歩兵を官渡要塞の攻略にあてて淳于瓊の救援に回さなかったことを張郃は指摘しているのかもしれない。しかし淳于瓊の救援には緊急性があり足の軽い軽騎兵を用いるのは妥当であり、重歩兵を遣わしていれば、あるいは袁紹みずからが救援に向かっていれば、決して間に合わなかっただろう。

三国志武帝

(原文)紹遣騎救瓊.左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」.公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之.

(訳文)袁紹は淳于瓊の救援に騎兵を遣わした。(曹操の)側近のなかに「賊軍の騎兵が近づいてきています。部隊を分けてあれを防ぐ許可をください」と言うものがあった。公は腹を立てて「賊兵が背後に来てから申せ!」士卒たちはみな死を決意して戦い、淳于瓊らを大破し、すべて斬首した。

軽騎兵ですら曹操軍に追いつけなかったのである。結果的に救援が間に合わず淳于瓊を失ったとはいえ、袁紹軽騎兵を選んだ判断に問題があっただろうか?

ここにも事実を記述しながら袁紹の評価だけを貶める歪曲が見られる。