曹仁と徐州戦

まず曹仁伝を見てみると、

三国志曹仁
(原文)從征徐州,仁常督騎,為軍前鋒.別攻陶謙將呂由,破之,還與大軍合彭城,大破謙軍.從攻費、華、即墨、開陽,謙遣別將救諸縣,仁以騎撃破之.
(訳文)徐州遠征に従軍し、曹仁はいつも騎兵を率いて軍の先鋒を務めた。別働隊として陶謙の部将呂由を攻撃して破り、引き返して彭城で本隊に合流、陶謙軍を大破した。費・華・即墨・開陽の攻略に従軍し、陶謙が救援のため別働隊の部将を諸県に遣わすと、曹仁は騎兵でもって撃破した。

彭城の戦いに参加したという。では彭城の戦いとはどういったものだったか。

三国志陶謙
(原文)初平四年,太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰.謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流.
(訳文)初平四年(一九三)、太祖は陶謙を征討して十あまりの城を陥落させ、彭城まで到達して一大会戦を行った。陶謙軍は敗走し、死者は万単位にのぼり、泗水はそのために流れを止めた。

後漢書陶謙
(原文)初平四年,曹操撃謙,破彭城傅陽.謙退保郯,操攻之不能克,乃還.過拔取慮、睢陵、夏丘,皆屠之.凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,自是五縣城保,無復行迹。
(訳文)初平四年(一九三)、曹操陶謙を攻撃して彭城・傅陽を落とした。陶謙が後退して郯城に立てこもると、曹操は攻撃しても勝つことができなかった。そこで引きあげることにし、みちみち取慮・睢陵・夏丘をみな滅ぼした。およそ殺された男女は数十万人。雞や犬も残らず、泗水はそのために流れを止めた。これ以来、この五県の城内ではもう人影が見られなくなった。

悪名だかい徐州虐殺が行われたのがこの戦役の最中だった。曹仁もこの惨事を目のあたりにしているはず。

(原文)仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事.
(訳文)曹仁は若いころ行儀を整えようとしなかったが、成長して将校になると法令を厳格に遵守し、いつも軍律を左右に掲げさせ、判断は職務(上の規定)に従った。

若いころはコンプライアンス意識がいまいちだったらしい。ひょっとして曹仁自身が虐殺に関与してたんじゃないの。