徐州の幷州民

後漢書陶謙
(原文)初三輔遭李傕亂,百姓流移依謙者皆殲。
(訳文)むかし三輔が李傕の乱に遭遇したとき、百姓たちが陶謙のもとへ流れて身を寄せたが、すべて滅んだ。

ふつう三輔の流民といえば195〜196年の飢饉を契機として流出した人びとを想起する。しかし陶謙のもとで滅ぼされる事件は193年に起こっている。だから、かれらは経済難民ではなく政治難民であると考えられるのだが、では、かれらが避けようとした政治的困難とは一体どういったものだったのだろうか。

193年といえば王允呂布董卓を倒し、ほどなく王允は三輔入りした李傕に殺され、呂布は三輔を追われた年である。王允呂布は幷州人であり、董卓と李傕が涼州人であるから、この一連の事件は幷州と涼州の主導権争いであると整理することができる。とすれば、李傕の三輔入りと同時に故郷を去って陶謙を頼ったこの難民の正体は、おそらく涼州人の迫害を恐れた幷州人だったのではないだろうか。しかし同年に徐州の惨劇が起きている。なんともやりきれない皮肉な結末だ。

陶謙が世を去ると、劉備をへて呂布が徐州牧になっている。すでに幷州難民は絶滅していたが、もし生存者があったならば、呂布の到来をいかほど歓迎しただろうか。この土地にはなにか幷州人にとって不思議な縁があるようだ。