劉璋の益州太守 高頤

姓は高、名は頤、字は貫方。劉璋のもとで広漢属国都尉、益州太守を歴任、建安十四年(209)に亡くなる。


中華書局『隷釈隷続』巻十一より「益州太守高頤碑」。

 君諱頤。字貫方。其先出自帝顓頊之苗胄裔乎。逢伯陵者。殷湯受命。陵有功。食采齊■樂邑。世為正卿。氏采建姓。至高■為桓公南陽之師。而成魯■美於春秋。訖漢■有四城■■■■■■■■關外家■■道至君立■■■■■親仁樂善。游心無藉。無■■■翔■■■■■■■■■■仕郡辟州。清寋之■不淪時■舉孝廉■■■■■■■■■州表蜀郡北部府丞武■令。■阿鄭之■■賦晏■之■性。試守廣漢屬國都尉。猶宓子之在密。配李牧之鎭代。試守益州大守。■■■之■罰膺求由之。政事斑芳。聲於國畿。理高滿之危溢。當登緄職。綏■時雍。運■未濟。天降■殃。害■貞良。建安十四年八月於官卒。臣吏播舉而悲叫。梨庶踊泣而忉怛。追恩念義。縗絰墳側。因作頌曰。

 穆穆我君。帝顓之胄。匡輔齊桓。■無其偶。苗裔流衍。■彼梁州。惟君立節卓爾絕殊。學■從政。■無茹柔。宰城子牧。惠澤沾優。剖苻典郡。威德■■。示民敬讓。閼斷苞組。宜享漢輔。■德將舒。乾流■戾。■見隕徂。凡百悽愴。痛乎何辜。祚爾後嗣。子孫之模。

今回はさらに難読ですなー。

 君は諱を頤、字を貫方という。その祖先の出自は帝顓頊の末裔の血筋であろうか。逢伯陵は、殷の湯王が天命を授かったとき、陵に功績があり、斉の■(高)楽邑を所領とし、代々にわたり正卿(大臣)を務めた。所領から氏をとり姓をたて、高■のとき桓公の武将、南陽の師となり、春秋において成魯■誉れ。漢にいたり■は四つの城を領有し、■■■■■■■■、外家に関与して、■■道至る。君は■を立てるに■■■■、仁に親しみ善を願い、心を自由にしても乱れることはなかった。無■■■翔■■■■■■■■■■。郡に仕えて州に招聘され、清廉正直との■は当時の■に並びなかった。孝廉に推挙され、■■■■■■■■■。州が上表して蜀郡北部府丞・武■令とした。■は鄭の■■につぎ、賦は■の■性を安らかにした。試用として広漢属国都尉を代理し、あたかも宓子が密にあり、李牧に代を鎮めさせたかのようであった。試用として益州太守を代理した。■■■之■罰膺求由之。政事斑芳。名声は首都圏に聞こえた。高く満ちれば溢れ落ちるのが道理である。刺繍帯の職位に登るべきところ、綏■時雍。運■はいまだ完結せず。天は■殃を降し、貞良を害■したまう。建安十四年八月、在職のまま亡くなった。部下はこぞって泣き叫び、庶民は泣き狂って悲しんだ。恩義を思いかえし、喪服にて墳墓の傍らに着く。そこで頌を作って言う。

 穆穆我君。帝顓之胄。匡輔齊桓。■無其偶。苗裔流衍。■彼梁州。惟君立節卓爾絕殊。學■從政。■無茹柔。宰城子牧。惠澤沾優。剖苻典郡。威德■■。示民敬讓。閼斷苞組。宜享漢輔。■德將舒。乾流■戾。■見隕徂。凡百悽愴。痛乎何辜。祚爾後嗣。子孫之模。

ちなみに益州郡というのは蜀漢建寧郡に相当し、雍闓、孟獲らが反乱を起こすなど統治困難の地であった。蜀郡北部はおそらく蜀郡属国と同じでのちの漢嘉郡、広漢属国はのちの梓潼郡。

少数民族対策のエクスパートと目されていたんではないでしょうか。